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栄橋から利根川の左岸側を望む |
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冬の渇水期でも滔々として流れている
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利根川左岸:布川河岸が存在した場所 |
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徳満寺
徳満寺(真言宗)は、元亀年間(1570年~)祐誠上人が中輿した寺で、当初は今の門前に建てられていましたが、この地を治め
ていた豊島氏が滅ぶと布川城の廃城を機に、城跡の現在地に移転した。本堂(地蔵堂)には、地蔵菩薩が安置され「子育て地蔵」と
呼ばれて親しまれています。少年期の柳田國男に大きな影響を与えたとされる「間引き絵馬」は、客殿の廊下に掲げられています。
一茶は、この徳満寺にも何度も訪れています。地蔵堂の左側に一茶野の句碑があります。 |
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徳満寺入口
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本堂
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段々に 朧よ月夜 こもり堂
一茶 |
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説明版の内容
一茶と徳満寺
一茶の師の一人であった今日庵元夢(森田
安袋)が布川の出身ということもあり、一茶
はたびたび布川を訪れました。
馬橋⇒流山⇒布川⇒田川(河内町)のコース
が最も足しげく訪れた所です。
布川には、49回も訪れて宿泊日数は289
日にも及びます。文化9年(1821)には月船
亭で正月を迎え
春立や 先ず人間の 五十年
おのれやれ いまや五十の花の春
口べたの 東鳥も けさの春
を詠んでいます。
この徳満寺にも何度も訪れ、文化句帳3年
(1806)1月に
段々に 朧よ月夜 こもり堂
と詠み、同14年3月に
月船と野廻り 徳満寺夕饂飩(うどん)
と記載されています。
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府川城跡
府川城(布川城)の本丸跡地に徳満寺建立
府川城は、中世末期の永正16年(151
9)頃、豊島頼継が当時「府川」(布川と
なったのは近世に入ってから)と呼ばれて
いた台地に築いた城です。天正18年(15
90)に豊島氏が滅んだあと、「府川城を
守りて、常陸の佐竹義宣に備えるべし」と
松平信一が府川城主として配置されてい
ます。
この城は、現在の徳満寺付近一帯にありま
したが、今は、空掘と土塁の跡のみが残っ
ています。 |
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間引き絵馬
徳満寺客殿の廊下に掲げられている「間引
き絵馬」。飢餓や水害に苦しみ、生まれたば
かりの子を母が手にかける…明治の頃まで
行われていた、間引きの悪習を伝えるもの
です。
こうした悲劇が繰り返されないようにと、徳
満寺に奉納された絵です。少年期の柳田國男
が民俗学の道に進むきっかけとなった絵と言
われています |
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布川城跡のビデオは こちら
(利根町役場製作) |
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琴平神社 |
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一茶は、琴平神社で琴平相撲を見学し、その状況を俳句に残しています。 |
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琴平神社
天明6年(1786年)再建され、万延元年
(1860年)増築されているが、創建は不明
寛政7年(1795年)から始められたといわ
れる「琴平神社奉納相撲」は、現在は、地
元のちびっこ相撲大会として毎年春分の
日に行われている。
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拝殿(正面奥)
小林一茶が享和3年(1803)に布川を訪れた
際、琴平相撲を見物し
正面は 親の顔なり 負け相撲
の句を残している。
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一茶句碑
べったりと 人のなる木や 宮角力
木に登り見物するほど大勢の客が詰め
かけて大賑わいであったという。
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弁財天 |
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弁財天
道路沿いの空地に弁財天があり、一茶の
句碑がある。
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一茶句碑
赤子から うけならはすや 夜の露
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来見寺(らいけんじ) |
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来見寺 |
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赤門 |
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本堂 |
来見寺は、府川城主豊島頼継により、永禄3年(1560)に創建されました。当初は、頼継寺(らいけいじ)といいましたが、
徳川家康の上意により名が改められたといいます。布川の来見寺(曹洞宗)の中で赤門は最も古い建造物で、宝暦5年(1755)
に再建されました。
家康公ゆかりの寺の門ということから、特別に赤く塗ることを許されたもので、普通は通ることを遠慮したものだと言われています。
赤門に向かって右側には「赤門やおめずおくせず時鳥」という小林一茶の句碑が建っています。 |
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説明版 |
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説明版の内容
この赤門は、来見寺の中で最も古い建造物
で、宝暦五年(1755)に再建されました。
徳川家康ゆかりの寺の門ということから特別
に赤く塗ることを許されたもので、普通は通
ることを遠慮したものだと言われています。
扁額は明僧の心越禅師の書です。かつては、
現在の駐車場の所にありました。
なお、来見寺は、府川城主豊島頼継により
永禄三年(1560)に創建されました。当初は頼
継寺(らいけいじ)といいましたが、家康公
の上意により名が改められたといいます。
赤門に向かって右側には「赤門やおめずおく
せず時鳥」という小林一茶の句碑が建ってい
ます。 利根町教育委員会 |
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一茶の句碑
赤門や おめずおくせず 時鳥 |
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布川神社 |
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境内には一茶の句碑はありませんでした。 |
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説明版の内容
昼顔の 花の手つきや 狙の役
一茶
「七番日記」文化七年六月十六日 晴
戸頭より取手小文間と渡りて布川に入。
けふ布川大明神祭とてつく舞という事有。
十六日の神事「つく舞」は非常に有名であ
った。竹弓を持って八間の帆柱の上でする
「舞」の妙技が圧巻で、「御舟」のなかで
は鶴亀鹿猿龍などの面を被った八、九才
の少人数が地舞を舞い・・・ |
布川神社 |
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説明版
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古く鎌倉時代の寛元年中(1243~12
47)豊島摂津守の建立。別当徳満寺院の
記録では、享保19年(1734)正一位布
川大明神とある。
明治元年(1868)布川神社と改称した。 |
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拝殿
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本殿 (有形文化財)
日吉造りという建築様式。
日吉大社が典型で、正面と側面の三方に庇
がついていて屋根を背面で切り落としたよ
うな形の様式。 立派な本殿でした。
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本殿の彫刻
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応順寺
天正16年(1588年)初代教慶院釈清信により開基された浄土真宗のお寺です。小林一茶と親交のあった古田月船や布川の
書家杉野東山などの文化人の記念碑や墓があり、墓には「花守りがよその花見る月夜かな」の句が刻まれています。
一茶は、布川河岸をたびたび訪れ、月船の家に泊まったと伝えられています。境内には、銀杏の大木や八重咲きの名木「八ッ
房の梅」、桜、梅、つつじ等の草木があり整備されています。
一茶と親交のあった布川の俳人古田月船のお墓があります。
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応順寺入口 |
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本堂 |
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境内の梅が咲き始めました |
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月船碑(左) 古田家墓石(右)
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月船碑
咲梅のうしろに不二の御顔哉
月船
布川河岸の古田月船は、当地方の
文化を担った者の一人である。
俳人小林一茶を支援し、一茶の月船
亭泊りは前後四十数回、二百八十余
日に及んだ。また取手の歌人沢近嶺
は、少年時代月船に俳諧を学び、生
涯父とも慕ってその最後をみとった。
天保八年一月二〇日没。
辞世に、「花の春八十一年の飯と汁」
と刻んであった。
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古田家墓石
右から1,2つ目は父母の戒名か?
3つ目が月船の戒名
五水菴釋東淵月船居士
台座には「古田氏」と刻んである |
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古田家墓石の左側面
五水菴月船
花守がよその花見る月夜かな
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泪塚(なみだづか) (現地には行っていませんが、一茶の句碑があることでインターネット資料をまとめてみました)
利根町押付新田の東端に泪塚と呼ばれている場所があります。
その名が示すようにここで昔、3家族10人が惨殺されるという悲惨な事件が起こりました。そのなかには5歳の幼児の
ほかに美しい娘もいました。ご禁制の鶴を捕らえて病気の妻に食べさせたというのがその罪ということですが、当時は
まだ徳川綱吉の生類憐みの令が発せられる少し前の時代。
小林一茶も後にこの地を訪れ、幕府の処置に抗議するかのような反骨の句を残し、現在、句碑として残されています。
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泪塚に建つ一茶の句碑
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泪塚を訪れると、道路から少し敷地に入っ
てすぐ右手に一茶の句碑が建っています。
文化元年(1804)9月7日に、一茶が泪
塚(当時は念仏院:廃寺)を訪れて詠んだ句
がここに彫られています。
事件後100年以上も経った文化年代におい
てもなおこの事件は生々しいものとして語
り継がれていたようです。
石碑の内容
文化元年九月七日 晴
押しつけ村に逝
そのかみ天和の比となん、鶴を殺して従
類刑せられし其屍を跡とて、念仏院とい
へる寺あり。二百年の後に聞さへ魂消る
ばかり也。況縁ある人においておや。
見ぬ世から 秋のゆふべの 榎哉
植足しの 松さへ秋の 夕哉
一茶
泪塚の話は こちら |
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布川本町の町並み |
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布川は利根川水運の河岸として繁栄し、地方文化の盛んな町でもあったが、当時の建物が建て替えられてしまい昔の面影が
全く見られなかった。人とも出会わず、たまに出会うとお年寄りであり、若者にはとうとう出会わなかった
赤松宗旦の旧居宅は、町指定文化財として一般に公開しており、室内には、赤松宗旦の書いた利根川図志・銚子日記などの資料
を展示してあります。私が訪れた時は、コロナ感染拡大防止のため休館でした。 |
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布川本町の町並み
水運の河岸として繁栄した町だが、今は
人とも出会わない。
古田月舟廻船問屋跡地は不明。
事前に利根町役場に聞いたが、どこにあ
ったかわからないとのことだった。
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赤松宗旦の旧居宅(町指定文化財)
赤松宗旦は、江戸時代末期の文化3年(1806
年)布川に生まれた。天保9年(1838年)同
地に医院を開業した医者。安政5年(1858
年)には、利根川流域の歴史や生活、伝説
等を描いた6巻にわたる書物「利根川図志」
を完成させた。
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利根川左岸
江戸時代には廻船問屋が並んだことであろ
う。当時の河岸は堤防の下に埋没してしまっ
ている。
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布川を訪れての感想 |
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小林一茶は、布川を49回訪れ、289泊しました。流山には、51回、136泊で泊数が2倍以上です。しかも一茶は徳満寺
でおぼろ月夜を詠み、金刀比羅神社では、奉納相撲、弁財天では・・・来見寺では赤門、布川神社では・・・泪塚では悲惨な歴
史を俳句で詠んだりしています。このように一茶は布川の歴史のある個所を訪れ俳句を詠んでいます。
泊数が多いということは一茶にとって魅力的な町であったのか、あるいは古田月船の待遇が余程よかったのかもしれま
せん。一方、流山では、歴史のある個所を訪れて詠む俳句が少ないような気がしました。小金牧くらいかもしれません。
布川本町が閑散としていた町とは思いがけなかったです。これはコロナの影響でしょうか。
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次回は、一茶の北総遍歴「守谷と取手」を訪ねての予定です。
令和3年1月「船戸陣屋をたずねて」以来、毎月流山に関係する史跡を訪ねてきましたが、次回で終了といたします。 |
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