連 絡 の 窓        

                      令和3年6月号
               
                過去の「連絡の窓」        
         
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令和2年 4月号 
令和3年5月号
令和3年4月号 
 
 
               ・会員の皆さんへ。
           「連絡の窓」を時々開いて、事務局からの連絡の確認や新情報を見てください。
           新型コロナウイルスワクチン接種が始まりました。2回接種後、2週間経つと免疫力がつきますので
           それまでは安心せずに十分な注意が必要です。
 
            6月19日更新   7月の定例会は中止  事務局からの連絡 
               6月21日より流山市は「まん延防止等重点措置」対象から除外されますので、 久しぶりの定例会
              を期待していた会員も多かったのではと推測いたします。

              前回のメール送信後、7月2日は欠席するとの連絡が事務局に多く寄せられ、事務局でも複数会員に
              聞き取りを実施したところ、会員及び会員家族のコロナワクチン接種が
6月下旬から7月上旬に集中
              していることが判明しました。このため、メールによる理
事会の承認を得たうえで、7月2日定例会
              は中止する運びとなりました。

              前回のメールに添付した調査票は、学校夏休み行事での当会への支援要請があった時に必要となるた
              め、7月2日までに以下の方法で事務局に届けてください。
既に回答済の会員は対応不要です。
               1.調査票記入後、電子メールに添付して返信する
               2.7月2日13時~14時中央公民館第二会議室に事務局が待機するので、直接渡す
               3.7月2日13時~14時中央公民館第二会議室に事務局が待機するので、来場して調査票を受
                 けとり、その場で記入して事務局に渡す

               4.郵便に同封して以下の宛先へ送付する
                   〒270-0115 流山市江戸川台西2-254 豊口 健

              7月2日予定の理事会は7月16日(金)10時~12時中央公民館第六会議室に延期いたします。
              8月定例会予定 8月6日(金)中央公民館第二会議室 13時~15時
              9月定例会予定 9月3日(金)中央公民館第二会議室 13時~15時
              追記:緊急事態宣言下でも人流増加が顕著で、コロナ再流行の嫌な予感がしています。 事務局へ
                 の意見、問い合わせなど直接話し合いたい会員は7月2日13時~14時中央公民館
に来場
                 下さい。
 
            6月15日更新  オンライン楽しむ会ミーティングでの勉強会  佐藤(茂)幹事
             ・「Zoomでオンラインを楽しむ会」ミーティング(6/12)にてテーマ「江戸時代の身分制度について」
              を岡理事が解説。  資料は こちら 

             ・現在は社会科の教科書に「士農工商」は記述されなくなっている事や、村に住んでいる人は農業をして
              いなくとも百姓身分、町人町に住んでいる者は町人」等。  
資料は こちら  
             ・この関連で田村副理事長から、苗字御免の視点からの検証結果の解説があった。
              「同じ酒を扱う商人であっても、町方と百姓に区分されている。 職業にかかわらず町に住む人は町方、
              村に住む人は百姓と区分されたことが分かる。つまり身分の上下はなかった。
 資料は こちら
            6月12日更新  2回目ワクチン接種後の症状について   事務局関口  
            ・昨日11日(金)に2回目のワクチンを柏厚生総合病院で接種しました。発熱、倦怠感などの副作用もなく
              安心しました。

            ・柏駅西口からの送迎バス(9時50分発)に乗る人は、前回(18名)と比べて少なく8名でした、帰りは
             7名でした。駐車場も前回と比べ空きが目立っていました。

              10時少し前に病院に着き、10時30分予約でしたが整理番号札をもらい、手続きをし10時30分には
             すべて終了しました。平本ご夫妻も2回目の接種で来ていました。

            ・夕方の体温36.0℃、接種個所に痛みがあり。(1回目接種と同じ症状)、夕食時にはアルコールなし。
             夜36.3℃
、風呂には用心のため入らず
            ・本日12日、朝36.0℃ 接種箇所の痛みあり、倦怠感無し、1回目接種と同じ症状。夕方も平熱でした。
             明日には、肩の痛みもとれることと思います。症状が変わりましたら再度、ご報告いたします。

             ・前評判では発熱、倦怠感、頭痛、下痢などの症状が出ることもあるという事でしたが、皆さんはどうで
             しょうか? 心配はないと思いますが。
 
          6月4日更新  ゆうゆう大学南流山学園への講義が行われました。  事務局関口
             本日、ゆうゆう大学南流山学園への講義がありました。
           これは、ゆうゆう大学の今年度講座計画の一環として行われたもので、当会では東部学園に続き2回目の
           講義で、「映像でめぐる南流山地区の史跡」でした。
           ゆう大専門員による講演者の紹介があり、青柳理事長から当会の設立経緯の説明から江戸を水害から守る
           ために利根川水系を整備した結果、流山が発展したから始まり流山の歴史について等約50分の講義。
           10分間の休憩後、岡理事からパワーポイントによる「セントラルパーク駅から東福寺コース」と「河岸、
           渡しコース」の約50分の講義でした。
           青柳理事長と岡理事の講義は、分かりやすかったので生徒さんたちは、流山のことを理解してくれたよう
           です。現地にも行ってみたいと言っていました。生徒の出席者数は38名でした。本日は雨のため10数
           人が欠席されたとのことでした。終了後、沢山の拍手をいただきました

 ゆう大専門員による講演者の紹介  青柳理事長の説明
   
   
   岡理事からパワーポイントによる説明
   
 
          6月4日更新  鈴木幹事からの情報
           「女おびしゃ」について
           前ケ崎の宝蔵院で、毎年行われている女おびしゃが今年も1月28日に行われました。
          宝蔵院の女おびしゃは、不動堂の中の不動明王を年一回1月28日にご開帳し、小豆ごはんをお供えし、
          五穀豊穣と無病息災、子供の成長を願うものです。今年はコロナ禍のため、縮小した女おびしゃでしたが
          大変珍しい祭りですので、博物館の館長さんや、市の職員の方々の取材がありました。

          いつもの年と同じように小豆ごはんをお供えし、甘酒を飲み、お弁当(昔は手作り)を食べ女性達は、おし
          ゃべりをして、女おびしゃを楽しんだそうです。
又、友人の話によると、館長さんから仏像等破損してい
          る所を修復したいと話して下さったそうです。 (鈴木記)
  
   
            「おびしゃ」について事務局調べ
          おびしゃと言えば、弓で的を射てその年の豊作を占う行事といわれていますが、中には弓を射る神事が
         伴わないものもあります。女おびしゃは、宝蔵院、男おびしゃは、香取神社(前ヶ崎)で行われます。

         東関東で多く見られる正月の農村神事ですが、その発祥理由から神社で行われるのが一般的でお寺で行
         われるのは珍しいですね。

         ・流山博物館のホームページ (11) 流山市立博物館 - 投稿 | Facebook
         ・千葉県芝山町の「おびしゃ」では皆さん楽しく過ごしているようです。
          オビシャ(おびしゃ) | 千葉県芝山町ホームページ (shibayama.lg.jp)

         女おびしゃという行事があるとは、鈴木さんの情報で初めて知りました。会員の皆さんの中にも知らなかった
         人が多いのではないかと思います。このような情報がありましたら事務局までお知らせください。
 
       6月4日更新  流山市景観賞を募集 広報ながれやま(6月1日)からの情報 
            歴史的・文化的な建築物や街並みなど、市の良質な景観を募集しています。
          散歩がてら良い景観を見つけたらパチリと撮って応募してみたらいかがでしょうか。
          応募内容は市ホームページを見てください。7月12日が応募期限です。

             景観賞|流山市 (city.nagareyama.chiba.jp)
 
       6月1日更新  事務局からの連絡
          理事会および定例会の中止について
          コロナ禍にあって会員の皆様も行動変容を強いられ、耐える生活を送っていると推測しています。
         残念ながら、まん延防止重点措置が6月20日まで延長されました。このため、6月8日予定の理事会、
         定例会は中止せざるを得なく
なりました。ご了承ください。
          ワクチン接種が前倒しで強力に推進されていることから、7月2日予定の定例会は実施できるの
         ではと期待しています。

         「ガイド活動参加に関するアンケート」はワクチン接種後に当会の活動が再開されたと仮定した時に、
         会員の皆様がガイドに参加するか、否かの調査票です。次の定例会に記入して持参ください。
         この結果を考慮し、再開時の当会
の対応方針を検討していきます。
          次回定例会では会員の皆様に近況報告2~3分をお願いする予定です。調査票の一番下の項目に
         近況を纏めておいてください。
また、書面表決書を手書き記入した会員を除き、書類に捺印が必要
         です。次回定例会に印鑑も持参ください。「ガイド活動参加に関するアンケート」は申し訳ありません
         が、「連絡の窓」から取り出してもらうか、定例会参加時に調査票をお渡しするので、当日記入して
         当日回収させていただきます。

         これからの予定(場所は中央公民館第二会議室)
          ・7月2日(金) 理事会、定例会
          ・8月6日(金) 理事会、定例会
           
          ・「ガイド活動参加に関するアンケート」 用紙は こちら
 
 
          雨野監事のメールアドレスの変更(再掲)
            新アドレス   amanh.0211@gmail.com
 
         円東寺の立木観音菩薩について  田村副理事長と佐藤(茂)幹事からの情報
          円東寺(市野谷)の「立木観音像」が完成し全貌を現わしたとの記事が朝日新聞(5/31朝刊)に掲載されましたの
         で撮影してきました。
境内にあった樹齢400年のイチョウを、流山の彫刻家の方が約8年かけて、立木観音として彫
         ったもの。来年3月に開眼会を行う予定。
6月10日頃までは全貌の見学可。その後お堂を造り始め、お堂に収まると
         通常はお顔だけしか見えなくなります。 (佐藤記)

              (参考 円東寺HP http://entoujide.gozaru.jp/ ここには未だ掲載されていません。)
              新聞記事は  こちら 
 
 
         ・勉強会
            小塚原刑場跡を訪ねて   事務局 関口(亘)            一部修正しました 2023.7.1
   皆さんが「閻魔堂」でお客さんに説明する時に、「金子市兵衛(金子市之丞)は44歳で小塚原刑場で処刑さ
れた」について小塚原刑場はどのような場所なのか、どのような歴史があったのか現地を訪ねてみました。

また、三千歳が建立したという片岡直次郎のお墓も小塚原回向院にありました。
現地はJR常磐線南千住駅(西口)からすぐに近いところにあり、現在は小塚原回向院および延命寺となっており、
回向院には歴史上著名な人のお墓がありました。
また、戊辰戦争の時、上野寛永寺における上野戦争で敗れた彰
義隊のお墓のある円通寺にも行ってきました。 
都内は、緊急事態宣言の中、5月26日に秘かに行って来ました
            
 
   小塚原刑場は、慶安4年(1651年)に千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)に創設された。
江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、西に大和田刑場(八王子市)
があり、三大刑場といわれた。

 小塚原の刑場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行され、蘭学者杉田玄白、前野良沢らが死体の腑分けの見分をしたと言
われている。明治6年(1873年)7月には、欧米と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府が小塚原刑場を廃止した。
小塚原刑場では、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人の刑が執行されたという。

 寛文7年(1667年)に本所回向院の住職である弟誉義観(ていよ・ぎかん)が、死者の埋葬と供養を行うため、小塚原刑
場隣接地に常行堂を創建し、これが後に小塚原回向院となる。安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎
等も一時埋葬された。

 回向院は常磐線、地下鉄日比谷線、隅田川貨物ヤードを建設する際、線路が敷地中央を通過したため分断され、常磐線
の北側が回向院、南側が延命寺として独立した。
延命寺は、罪人を供養するために寛保元年(1741)に造立された“首切地蔵”が安置されている。
鉄道建設の際、多数の人骨が出てきました。
 二代目松林伯円の講談「天保六花撰」、河竹黙阿弥の歌舞伎「天衣紛上野初花」に登場する片岡直次郎(直侍)のお墓
もありました。これは、遊女三千歳が処刑された片岡直次郎の死骸をひきとり、墓を建てたものである。
 
 
              小塚原刑場の昔と現在
 
   
 
 常磐線によって小塚原刑場跡が分断され、回向院と延命寺となる。  現在の南千住駅付近
   
   
 
          JR常磐線南千住駅(西口)
  以前は盛土の駅であったがつくばエクスプレスの南千住駅
  建設の時に高架橋にした。

 駅前に松尾芭蕉の像が建っていました。


   
            小塚原回向院
   回向院の墓地は、荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡
  として文化財となっており、一般の方の墓地と分けられてい
  ます。
  井伊直弼による“安政の大獄”で処刑された明治維新への精
  神的指導者と云われる「吉田松陰」等のお墓があります。
  ここには当時の墓石だけが文化財として保存されています。





          回 向 院(えこういん)
  回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の弟誉義観(てい
 よぎかん)が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、
 当時は常行堂と称していた。
  安政の大獄により刑死した橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎ら
 多くの志士たちが葬られている。明和8年(1771)蘭学者杉田
 玄白、中川淳庵、前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち会
 った。後に「解体新書」を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残
 したことを記念して、大正11年に観臓記念碑が建立された。

                  荒川区教育委員会
   
 
           橋本左内墓所 
   橋本左内は、16歳のとき大坂で緒方洪庵の蘭学塾に入門,蘭
 学,医学を修め,嘉永5 (1852) 年父業を継いで藩医となった。
 藩主の意向に従い一橋慶喜を将軍継嗣に擁立しようと奔走した
 が将軍継嗣問題に介入したことを問われ安政の大獄に連座して
 伝馬町牢屋敷で処刑。罪人として回向院に葬られた。
 墓は改葬して福井市の善慶寺の境内にあったが、昭和20年の
 空襲により焼失したため隣接する左内公園に移設。享年26。
   
 橋本左内碑
碑の内容は不明







   
 
            吉田松陰の墓所
   松陰は「安政の大獄」を未然に防止しようと老中間部詮勝
  (まなべあきかつ)の暗殺計画を自供して自らの思想を語り、
  江戸伝馬町の獄で処刑。享年30
  松下村塾で多くの志士を育て、その“志”は塾生たちに受け継
  がれ、明治維新の原動力となった。罪人として回向院に葬ら
  れた。墓は改葬して東京都世田谷区若林町松陰神社にある。
        頼三樹三郎(らい みきさぶろう)の墓所
   幕末期の儒学者。父は日本外史で有名な儒学者・頼山陽
   尊王攘夷論を唱え,国事に奔走し、安政の大獄で刑死。

    享年35。墓は京都円山公園の裏にある長楽寺と松蔭神社
   にある。
   *近藤勇は頼山陽(儒学者、歴史家、漢詩人)を尊崇し、
    辞世の句を漢詩で書いたといわれている
。   
   
 
           関鉄之介の墓
  

            4悪人の墓石
 右から「腕の喜三郎」「高橋お伝」「片岡直次郎」「鼠小僧治郎
 吉」
  
   関鉄之介
    井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」を元水戸浪士達の総指揮者が関鉄之介で、実際の襲撃には不参加であったが、襲撃後、
  全国で潜伏中に捕えられ斬罪されたのち、ここ回向院に埋葬された。


  高橋お伝
    夫の浪之助が癩病を発病後死去。毒殺などと言われるが実際は逆で、お伝は厚い看病をしていたというその後、妾や街娼になり、
  逮捕まで同棲するやくざ者の小川市太郎と恋仲になる。
 明治9年(1876年)8月 市太郎との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉
  蔵に借金の相談をしたところ、愛人になるなら金を貸すと言われる。
吉蔵の申し出を受け入れ、偽名を使い夫婦と偽装し東京・浅草
  蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で同衾した。しかし、翌日になって吉蔵が突然翻意し、金は貸せないと言い出したため、怒ったお伝は剃刀
  で喉を切って殺害。明治初期の稀代の悪婦として知られ、最初の夫を毒殺後、各地を放浪しながら悪事を重ねたと誤って伝わってい
  る。
市ヶ谷監獄で死刑執行、回向院に埋葬された。
 
 
 片岡直次郎の墓

    三千歳が建立した直次郎の墓の右横側に「美千登せ?」
  「
なを女」と刻んである。
    片岡直次郎
     1793年(寛政5年)、旗本渡り用人の家の次男として生まれる。江戸・四谷に住んだ。
   詐欺、ゆすり・たかり(恐喝)を常習とする無頼の人物であり、仲間の河内山宗俊とともに1823年(文政6年)に捕らえられ、
   河内山は獄死したが、直次郎は翌年1824年(文政7年)、追放処分を受けた。

   その後、恐喝行為を繰り返したため、再び捕らえられ、1832年12月14日(天保3年11月23日)、千住・小塚原刑場で刑死した。
   享年40

   吉原遊廓・大口屋の遊女であった三千歳(1813年-1884年)が、小塚原の回向院に墓を建立した。
   没後、二代目松林伯圓(1834年-1905年)が講談『天保六花撰』に書き起こし、演じた。のちに河竹黙阿弥が歌舞伎にとりあげ、
   『天衣紛上野初花』(通称『河内山と直侍』)が初演され、河内山を九代目市川團十郎、直侍(直次郎)を五代目尾上菊五郎が
   演じた。
    以降、映画・テレビ等でも多く取り上げられるところとなる。  Wikipediaより
 
 
 





 [左から]大口抱三千歳(中村時蔵)、片岡直次郎(尾上菊五郎)
 平成22年11月新橋演舞場





        三千歳 (みちとせ)(1813-1884)
  江戸時代後期の遊女。文化10年生まれ。本名中村なを。
  江戸浅草の茶くみ女から新吉原の遊女となる。
  処刑された情人の片岡直次郎の死骸をひきとり、墓を建てた。
  2代松林伯円の講談「天保六花撰 」、河竹黙阿弥の歌舞伎
  「天衣紛上野初花 ( くもにまごううえののはつはな )」など
  に脚色された。明治 17年 8月 31日死去。72歳。

   
   
         鼠小僧次郎吉の墓(左側)
  鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家
 から盗んだ金銭を分け与えた」という伝説がある。しかし鼠小僧
 についての事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間
 では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という
 説が定着している。
 本来の墓は墨田区両国の回向院で、この墓石は義賊に恩義を受
 けた人々が建てたと言われている。
           磯部浅一夫妻の墓 
   磯部浅一は、皇道派青年将校グループの中心人物として
  知られ、栗原安秀らとともに二・二六事件の計画・指揮に当た
  った。事件後の軍法会議で死刑を宣告され、1937年銃殺刑に
  処された。


   
           観臓器記念の碑
   『解体新書』作成のお手本である“ターヘル・アナトミア”
  の人体解剖図を検証するため、前野良沢、杉田玄白らが小塚
  原刑場を訪れ、刑死者の解剖に立ち合ったことで『解体新書』
  の翻訳を作り上げたことを記念したもの。
          観臓器記念の碑
  一般的に人体の解剖は御法度ですが、ここでは特別に刑死者
 の解剖である“腑分け”が行われており、解剖は“虎松の祖父”と
 呼ばれる老人が肺、心臓、胃などを正確に切り分けて前野良沢、
 杉田玄白に説明した。
   
             延 命 寺
   小塚原刑場跡には回向院から独立した延命寺というお寺が
  あり、そこには罪人を供養するために建てられた「首切り地
  蔵」という高さ3mにもなる大きな地蔵があります。 
            首切り地蔵
   
 
   

   


 
 小塚原刑場跡と小塚原の首切り地蔵

  小塚原刑場は、火罪、磔、獄門などの刑罰、無縁の埋葬、供養、
 刀の試し斬り、腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の
 埋葬地としても利用された。間口六十間余(約108メートル)、
 奥行き三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初
 年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっ
 ていった。
  首切り地蔵は、寛保元年(1741)に造立された石造の延命地蔵菩
 薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年
 (1896)に開業した隅田川線の敷地予定地に安置されていたた
 め、工事に伴い移された。
  明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日
 に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出る
 など大変な賑わいを見せたという。

                荒川区教育委員会
  
 


  つくばエクスプレス線の建設時にJR南千住駅を高架化建設時
 に地面を掘り起こしていたところ木箱に入った105の頭蓋骨が出
 てきた。小塚原刑場地内であり、明治に入っても断首刑が行われ、
 埋葬されたのは20万人にものぼると言われる。

 ここに長居すると背後霊がつきそうなので、お賽銭を入れ、静か
 に眠ってくれるよう拝み、早々に延命寺を退出しました。










 
        円通寺
       この寺は寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられる。
      明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像がある
      あたりでこの寺の住職が火葬を行っている。
そのため、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門
      (黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓がある。
 
   
     百観音 円通寺

  延暦十年(791)坂上田村麻呂が開創したと伝えられる。
 源義家が奥州を鎮定したとき、討ち取った四十八の首を寺域内に
 埋めて塚を築いたので、このあたりを小塚原とよぶようになった
 という。
  江戸時代、下谷の広徳寺、入り谷の鬼子母神とともに「下谷の
 三寺」とよばれた。秩父、坂東、西国霊場の百体の観音像を安置
 した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、
 観音堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊した。
  境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年((1296)
 銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある。

                荒川区教育委員会

   
                    旧寛永寺黒門(荒川区指定有形文化財)
  慶応4年(1868年)の上野戦争の時、新政府軍により、「上野山」の寛永寺に立て籠もる「彰義隊」に総攻撃が開始されたが、わずか
 1日で彰義隊は壊滅した。この黒門は明治40年に「上野山」の寛永寺から移築したもの。この門には無数の弾痕があり、戦争の激しさを
 物語っている。
   
 
 フエンスの右側に彰義隊士の墓がある。  死節の墓
   
        彰義隊士の墓

  慶応四年(1868)五月、寛永寺に終結した彰義隊は新政府
 軍との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の
 遺体を見た円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人
 三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
  これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移
 された。昭和六十年に修復工事が行われている。

                   荒川区教育委員会

   
 
           大鳥圭介の追弔碑              松平太郎の墓
  大鳥圭介
  江戸開城と同日の4月11日、伝習隊を率いて江戸を脱走し、本所、市川を経て、小山、宇都宮や、会津を松平太郎、土方歳三等と合流
 しつつ転戦し、仙台に至る。仙台にて榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となる。、五稜郭で降伏したのち、入牢す
 るが黒田清隆の尽力で赦免され、以後、工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代校長となる。第3代学習院長に就任。技術・教育関
 係の役職を歴任した。その後は外交官に転じた。

 松平太郎
  慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、2月には歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍総裁・勝海舟の下で旧幕府軍の
 新政府軍への反発を抑える役目を負うが、主戦論者だった松平は大鳥圭介や榎本武揚らと図って自らも抗戦に参加。江戸を脱出し、
 今市にて大鳥と合流、軍資金を届けている。その後会津戦争で敗れると榎本らと共に蝦夷地へ渡った。
 新選組が五兵衛新田に駐屯しているときに、流山への移動の許可を出さなかった。(令和3年4月号参照。 こちら

 
   
             新門辰五郎の碑           榎本武揚の碑(右側)
  新門辰五郎
   幕末の江戸の侠客,町火消。下谷に生まれ,浅草寺の新しい門の防火を預かり新門と称す。幕臣に取り立てられ,子分を
  率いて市中警備にあたった。1862年一橋慶喜に従い上洛,禁裏警衛についた。慶喜の身辺警護は駿府移転まで務めて
  いる。その侠気は後に脚色されて歌舞伎・講談などで有名。娘の芳が15代将軍徳川慶喜の側室になっている。
   
 榎本武揚
   旧幕臣、明治政府の政治家、外交官
  戊辰戦争のとき,「開陽丸」ほか旧幕艦数隻を率いて箱館に入り新政権樹立を宣言。五稜郭の戦いで1869年5月新政府軍
  に降伏、投獄された。黒田清隆、福沢諭吉らが榎本の才能を惜しみ明治政府に仕えさせた。万国海律、語学をはじめ、軍事、
  国際法、化学など広い知識を持つ。
 
   
            首塚・七重の石塔
  首塚は、源義家が奥州征討の際、逆賊らの首級48個をこの地に
 埋めて「小塚」を築いたと伝わる。ここからこの周辺を小塚原と
 言われるようになった。「石造七重塔」と
「板碑4基」が荒川区指
 定有形文化財。
 
   
 
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