・会員の皆さんへ。
「連絡の窓」を時々開いて、事務局からの連絡の確認や新情報を見てください。
新型コロナウイルスによる非常事態宣言が解除されましたが、未だ感染者増加の傾向があり、気を緩めず
に散歩や運動を心がけて体力向上に努めてください。
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4月29日更新 ワクチン接種の予約始まる 江田幹事からの情報 |
柏厚生総合病院でワクチン接種の予約が始まっています。市外の人でも予約が可能です。
予約サイトから予約ができます。電話予約の場合は診察券が必要です。
当会の江田さん、岡さんも予約しました。2回目の予約は6月は既に満杯とのことです。
柏厚生総合病院へは柏駅からバスで約15分です。
流山市の予約は、5月下旬に送付される予約票によります。接種は6月頃になる見込みです。 |
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4月18日更新 田村副理事長からの勉強会の資料 |
旧水戸街道に旧木戸(仮称)があったか?ー『駅路鞭影記』からその存在を探る
「流山市史研究」に投稿した原稿です。 資料は こちら |
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4月15日更新 理事会の報告 |
13日に行われた理事会の内容を下記の通り報告いたします。
要旨
青柳理事長からの現状報告および事務局からの総会に向けての資料の報告その他の検討を行った。
・4/15商工会議所青年部に対してリモートでの史跡案内を行うの予定である。
・ゆう大関係は、事務局作成の映像(パワーポイント)を使って5/12東部学園~12/3おおたかの森学園で
映像による史跡講義を行うことになった。学園が6か所あるので班ごとに割り当てしたい。中止になる
かもしれないが準備だけはしておきたい。
学園によっては、テーマを変更して行うことがある。
・流山本町の重要史跡に「流山市指定記念物(史跡)」認定のお願いを当会および各自治会長連名で教育
長に書面を提出する予定である。(史跡7個所に案内板の設置の要望)
・流山小学校から、昨年から流山本町史跡案内を要望されている。北小学校からも案内の要望がある。
・公民館から春の行事についてやってほしいとのことであったが、当会はできないと断った。秋元土蔵の
見学案内についてもお断りした。 (秋元土蔵の見学案内は博物館が行うことになった)
・2代目ビリケンが3/25設置された。ビリケン像の製作寄付者としてビリケンの縫いぐるみが送られてきた。
・総会は、昨年同様、書面表決になる予定である。
・今年度の年会費は、前年度ガイド活動を行わなかったので、徴収しないことで了承された。
・ボランティア保険は、会員ではあるがガイドをしない3人(野浦顧問、石垣顧問、石井幹事)については、
保険を掛けないことで了承された。
・新年度の班編成については、検討の結果、再検討することになった。
・ガイド再開の目途は、65歳以上のワクチン接種終了後とする。ただし、会員のアンケートを取って、参加で
きるかどうか本人確認する。
・事務局の増員については、前向きの方向でいく。
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送られてきたビリケンの縫いぐるみ
4月14日読売新聞夕刊の記事(岡理事提供) |
4月13日読売新聞 |
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4月4日更新 事務局からのお知らせ |
年度初めの定例会で、緊急事態宣言が解除され、流山市の公共施設も定員100%の利用が認められたことから、
事務局では実施する準備を進めてきました。
3月末くらいに変異ウィルスによる感染者再拡大が明らかになり、
会員の安全、安心を最優先する会の方針に従い
4月13日予定の定例会は中止することになりました。連絡が遅れましたことお詫び致します。
今年度の活動方針、総会準備などで理事会のみ開催致します。理事会の結果は「連絡の窓」を通じて、会員の皆様
に通知致します。
理事の皆様も個人事情を熟慮して、出席するかは自己判断でお願い致します。
これからの予定(場所は中央公民館第二会議室)
・4月13日(火) 理事会
・5月7日(金) 理事会、総会、定例会
・6月8日(火)理事会、定例会
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4月1日更新 青柳理事長・谷田(か)幹事からの情報 |
・二代目ビリケンについて
3月25日(木)午前10時、市関係・観光協会関係者一部で、ささやかに2代目ビリケンが設置されたので立ち会って
きました。 円東寺住職が開眼読経し、特に記念式典は設けないとのこと。銀色も見慣れれば落ち着いて良いも
のです。 (青柳理事長)
・運河周辺は、桜と菜の花で美しく、多くの人々が 散策を楽しんでおります。 27日から「ビリケンさんの大喜利
コンテスト」が始まりました。 それに合わせて、銀色の「二代目ビリケンさん」が 25日に祠にやってきました。
説明板も設置されました。 裏に寄付された方の記載があり、我がガイドの会の名前も ありました。
イベントは行わないそうです。私も応募して、ビリケンさんのキーホルダーをいただきました。10㎝ぐらいの、思
っていたより大きくてかわいいぬいぐるみでした。 ⦅谷田(か)⦆ 写真提供 事務局 岡理事 |
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当会の名前も記載されています。 |
ビリケン像の製作支援者名が記載されている |
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・鬼瓦について 青柳理事長からの情報
最近、流山本町の浅見マンション(紙平)の屋上に流山最大という昔の鬼瓦を上げました。富士塚から遠見で小ぶり。
望遠鏡で見たらどんなものか。 写真提供 佐久間幹事 |
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浅見さんから須郷理事へ送られてきた写真
1750年ごろのもので、「井」とあるので浅見伊兵衛の代のものとのことです。 大きさは新撰組陣屋の鬼瓦の3倍ぐらいかなと
笑っておりました。
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・須郷理事からの情報 |
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流山本町江戸回廊の案内表示が南流山駅からケーズデンキの個所に設置されました。 |
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No1 南流山駅
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No1 |
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No1 |
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説明内容 |
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No3 |
No3 |
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No10 |
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・佐藤茂晴幹事からの連絡
『Zoomでオンラインを楽しむ会(仮称)』へのお誘い
今回の参加者のお誘いは1,3,5班の皆さんです。申し込みは4月10日までです。
詳細は こちら |
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目安箱 (再掲)
日頃のガイド活動で感じたこと、改善したいことなど会の改善に伴う建設的なご意見をお願いいたします。
ご意見は画像をクリックしてください。 |
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勉強会3題 |
1.六地蔵 中野(隆)幹事 |
「流山の石仏」や「流山金石文目録」をもとに市内の六地蔵を現地調査してまとめてみました。 資料は こちら |
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2.旧流山村の周辺部村々の庚申塔関連話 塩崎幹事および佐藤(茂)幹事 |
1月の勉強会で田村副理事長の「庚申信仰について」に興味を持ち、二人で旧流山町を構成6村々の庚申塔の現地調査、
その中で村の付き合いや民間信仰の講等も少し自己学習し資料を整理しました。
担当個所は以下の通り
塩崎 : 鰭ヶ崎、木村 資料は こちら
佐藤(茂) : 流山村、加村、西平井村、三輪野山村 資料は こちら
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3.事務局 関口(亘) 「五兵衛新田を訪ねて」
皆さんが「新選組陣屋跡」(秋元土蔵のところ)でお客さんに説明する時に、必ず出てくる「五兵衛新田の豪農であった
金子家」について153年経った現在どんな状況になっているのか、どのような歴史があったのか現地を訪ねてみました。
現地は千代田線綾瀬駅(西口)から近いところにあり、今回の現地調査は楽でした。しかし、新選組に関する内容は豊富に
ありました。これは当時の名主金子健十郎が、慶応4年3月13日から4月1日までの新選組に関する食料、物資など購入
された品々、幕末当時の時代背景を伝える手紙類、領収書、書簡類、近藤勇の写真1枚等々で貴重な古文書類が現存してい
るのです。新選組が購入した品々を金子健十郎が「覚え」として書き残したことにより新選組の動向が明らかになりました。
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千代田線綾瀬駅西口 |
現在の大室家⦅五兵衛新田役人惣代(総代)⦆ |
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大室家の門 |
五兵衛新田惣代の大室源右衛門は「乍恐以書付申上候」(恐れながら書付をもって申し上げ候)という書面で代官の佐々井半十郎
に大久保(近藤勇)らの金子家宿泊を届け出ている。また、金子左内(健十郎)も鎮撫隊の増員により分宿させる旨を佐々井半十郎に
届け出ている。 佐々井半十郎 : 関東郡代淵江領(現足立区域の大部分)を支配していた代官。 |
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現在の金子家(一般公開はしていません)
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門の左側に説明版がある |
金子家文書(新撰組関係資料二十一点)
幕末の動乱期、当金子家に新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)
が半月にわたって滞在していた。
当家には覚書、願書、書簡、それに鎮撫隊の動向書、風聞書など、
その間の新撰組の動きを知る貴重な資料が多数保存されている。
これらの文書から見ると、新撰組の当地滞在期間は、慶応四年
(一八六八)三月十三日から四月一日まで二十日間。人数は当初
四十八人から次第に増加して、終りの頃には二百三十余人達し、
金子家ほか近くの観音寺に分宿していた。
主な資料をあげると、「乍恐以書付奉申上候」=五兵衛新田の年
寄源右衛門が、金子家に近藤勇達が宿泊していることを代官所に
届け出たものである。
「おぼへ」=当主健十郎が認めた賄方の記録で、滞在期間の動向
を知る貴重な資料である。
書簡=代官佐々井半十郎より医師松本良順宛と近藤勇宛のもの
等がある。
これらの資料は足立区登録有形文化財となっている。
また、当家の祖先であり「五兵衛新田」の開拓者の一人である金
子五兵衛の墓(足立区登録有形文化財)は、観音寺に建立されて
いる。
平成十二年十一月
足立区教育委員会 |
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大久保らが屯所とした当時の金子家(足立区HPより)
現在は取り壊されている。
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金子五兵衛は、武州入間郡金子村(現在埼玉県入間市)の
出身で、宗家は武蔵七党の武士であったと伝えられ、慶長
2年(1597)に当地に来て新田開発を行ったといわれている。
昭和50年名主金子左内家の蔵から「覚え」と書かれた多く
の書付が発見された。
その内容は、慶応4年3月13日から4月初旬までの新選組に
関する食料、物資など購入された品々、幕末当時の時代背
景を伝える手紙類、領収書、書簡類、近藤勇の写真1枚等々
で、貴重な古文書類が多数現存している。
金子佐内家は当時3000坪の敷地を有していた。周囲に
は構え堀を巡らし巨大な長屋門、そして曲がりや作りの母
屋で、特に客間は十畳の二間続きに作られていた。当時の
欄間彫りが建て替えられた現在の左内家に現存している。
「左内」は屋号である。
金子家の「覚え」には、新選組が金子家に47人、観音寺に
62人、金子滝二郎宅に83人、新宅(分家)に35人、総勢
227人が最終的に宿泊したとの記録が残っている。
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甲州勝沼の戦いで敗れた近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、慶応4年3月13日48名が金子家に入った。15日には土方歳三も加わ
り、一挙に100名を超える隊士が集まりました。近藤勇は炭、むしろ、下肥(糞尿)を大量に買い付けた。これは火薬、弾丸の
製造に使われたとの説がある。下肥とヨモギなどのカリウムを含んだ雑草野草で硝酸カリウムと炭で火薬を製造し、近藤勇は鉄砲
による近代戦への準備をしていたのである。金子健十郎は購入品物を「覚え」に克明に書き残している。
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敷地の右手には洋風の住居が建っている。(金子宅)
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滝二郎宅跡(左側のマンションに変貌?)
当時の面影は全くない。当時は83人が宿泊した。
滝二郎は初代金子五兵衛の孫で三代目が隠居分家した。
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五兵衛橋(綾瀬川)
江戸時代には綾瀬という地名はありませんでした。明治22年
の町村制施行の際、次郎左衛門新田、弥五郎新田、五兵衛新田、
伊藤谷村の4か村他を合併した際、江戸時代から綾瀬川と深い
関わりをもっていたことから綾瀬村と名付けられた。
「五兵衛」名残の橋である。
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綾瀬稲荷神社
江戸時代から五兵衛新田の鎮守で、稲荷社と呼ばれていた
が明治7年五兵衛神社と改称。戦後、周辺の住居表示が「綾
瀬」となったことから「綾瀬稲荷神社」となった。
創建は慶長19年(1614)、祭神は宇迦之御魂命(うかの
みたまのみこと)。
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綾瀬稲荷神社
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綾瀬稲荷神社富士塚
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観音寺
江戸時代初期、五兵衛新田開発者の金子五兵衛の開基と
伝えられ、金子家代々の菩提寺である。新選組隊士62人が
宿泊した。大室家のお墓もある。真言宗豊山派のお寺である。
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観音寺本殿
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稲荷山 蓮華院観音寺
真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で17世紀初頭に
創建されたと推定される。この地は江戸時代のはじめ頃か
ら開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩
提寺として地域とともに歩んできた。のち慶応4年(1868)
3月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫
隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで
進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退した
というエピソードを持つ。
開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛
である。境内に五輪塔形式の墓があり、開発の歴史を今に伝
え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となってい
る。
本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大
師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八十八ヶ所霊場51番、荒綾
八十八ヶ所霊場の70番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地
であった。ほかにも境内に寛文4年(1664)の聖観音立像庚
申塔があり足立区登録有形文化財となっている
令和元年十二月
東京都足立区足立区教育委員会 |
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金子家の墓
石段を登って奥に右の写真がある。
足立区登録有形文化財となっている。
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金子佐内家之墓
左の写真の正面奥にある。
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伊藤谷橋
町村制施行の際、次郎左衛門新田、弥五郎新田、五兵衛新田、
伊藤谷村の4か村他を合併して綾瀬となった。伊藤谷村の名残
の橋である。
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綾瀬川(下流を望む)
左側の高架橋は首都高速6号三郷線
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新選組が五兵衛新田に屯集しているとの報が新政府軍に入ると、追手が派遣され、小菅籾倉に陣を張り、伊藤谷橋のたもとに
大砲を設置した。これを察した近藤勇は4月1日夜のうちに五兵衛新田から流山へ移動した。
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伊藤谷橋から望む東京拘置所
東京拘置所 : 江戸時代に銭座・籾倉(元関東郡代伊奈氏江戸
下屋敷跡)があった場所である。明治12年設置
銭座 : 銭座では主に四文銭、一文銭が鋳造されていた。
通称小菅銭といわれ鉄銭を作っていた。
籾倉 : 江戸時代、凶荒年に備えて米を籾のままで貯蔵してお
く蔵。
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「のし袋」と近藤勇の写真 (金子家蔵)
慶応4年4月1日、慌ただしい出立の日に滞在の謝礼を金子
健十郎に置いていったもの。「のし袋」の中には金弐千疋
(五両)と近藤勇の写真が入っていた。
隊士たちの飲み食いや物資に金子家が費やした金額は
324両であった。
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国立国会図書館蔵
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近藤勇宛佐々井半十郎書状 |
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近藤勇宛佐々井半十郎書状
(足立区立郷土博物館)
戊辰戦争のさなかの慶応4(1868)年、幕府代官佐々井半十郎が、幕臣となっていた近藤勇(幕臣名=大久保大和)に出した書状。
御手紙致拝見候然者兼而 御内話御座候利根川向転 移之義被仰下候趣承知然処 松太君深見込有之趣似
是迄之御場所御居被置度 之義而其段者過日御返書 申上候通先是迄之姿可 ー中略ー
三月二十九日 佐々井半十郎
大久保大和様
利根川向こうの軍役移動(流山への移動)は、松太君の深い考えがあって当分の間五兵衛新田に駐屯してくれという佐々井半十
郎の手紙である。
近藤勇は、五兵衛新田滞在中から流山への移動を再三願い出ているが佐々井半十郎との書簡のやり取りで止められてしまう。
松太君(松平太郎) : 慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、2月には歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍総裁・
勝海舟の下で旧幕府軍の官軍への反発を抑える役目を負うが、主戦論者だった松平は大鳥圭介や榎本武揚
らと図って自らも抗戦に参加。江戸を脱出し、今市にて大鳥と合流、軍資金を届けている。その後会津戦争で
敗れると榎本らと共に蝦夷地へ渡った。「蝦夷共和国」において副総裁を務めた。(松平太郎:Wikipediaより)
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慶応4年4月3日、新政府軍の有馬藤太率いる斥候隊に本陣長岡屋を囲まれた甲陽鎮鎮撫隊(新選組)は、近藤、土方両雄
揃いながら一戦交えることなく近藤は武装解除と出頭という形であっけなく幕を下ろしてしまったという謎があった。この謎は
何か。
一説には五兵衛新田で製造した火薬、銃弾の荷駄が流山に届かなかったという。当時の荷駄は宿送り形態で荷はすべて各宿場の
問屋場から次の宿場の問屋場への継荷が大原則であった。この制度により各宿場の人足たちに荷駄賃が落ちるように制度化され
ていた。葛飾の新宿(にいじゅく)から松戸宿を経由して流山到着となる予定であったが4月3日に流山に届かなかった。
近藤勇の出頭が午後8時まで引き伸ばした理由は、荷駄の到着を待っていたのではないだろうか。荷駄が届かなかったため一戦
を交えることなく出頭した。これが真実なのだろうか。
新選組に協力をした金子健十郎は東山道軍に春日部まで呼び出されるが、罪を問われることなく、明治、大正と年を重ね天寿を
全うした。 |
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参考文献 : 足立風土記 足立区教育委員会
足立区ホームページ
新撰組五兵衛新田始末 増田光明 崙書房出版
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