連 絡 の 窓    
 
    令和3年11月号   
     
          
   
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          会員の皆さんへ
 「連絡の窓」を時々開いて、事務局からの連絡の確認や最新情報を見てください。
新型コロナ感染者は、全国的に激減しておりますが、会員の皆さんも気を緩めずにこれまでと
同様に感染防止対策をしていただきたいと思います。
 
   
      11月10日更新  流山在住の落語家の案内とコラボ動画について   青柳理事長
   先般ご連絡のツーリズム課から流山在住の落語家に一茶双樹記念館案内依頼の件、20分程案内してきました。
ユーチューブ出演とは知らず
軽い気持ちでやってきましたが汗顔の至りです。これも流山や当会のPRになれば
よいと思っています。

 https://youtu.be/MTl97bliN7A 落語家・柳家緑也師匠の町巡り編 22分50秒
町巡り編では、青柳さんにご出演いただいたことで、より見応えのある素敵な動画になったと思っております。
突然の依頼だったにもかかわらず、ご出演いただきありがとうございました。(ツーリズム課

 https://youtu.be/CysxNpory5U 【落語編】23分07秒
流鉄構内での高座の風景は素晴らしいです。やはり流鉄は魅力的です。
青柳)

 
       11月10日更新  ゆうゆう大学北部学園講義について  佐藤茂幹事
  11月9日に行われたゆうゆう大学北部学園の「映像でめぐる北部地区のあゆみ」の講義報告をします。
・ 荒天でしたが30名の学生が出席。公民館専門員2名(高田さん、3班班長石橋幹事)、田村副理事長、佐藤(茂)
・ 司会のゆう大高田さんによるガイドの会活動紹介と講演者プロファイルの紹介(「わがまちふるさと再発見」や
 運河出版書籍)があり、続いて田村副理事長から、ガイドの会活動期間、「わがまちふるさと再発見」8年4ケ月
 休まず掲載したこと、地元江戸川台居住の事等を説明。

・ 講義は、主にパワーポイントにより行った。
 
 
 
 
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      11月8日更新  新入会員の現地研修   事務局
       本日、新入会員の現地研修(本町界隈)を事務局の案内で行いました。天気に恵まれ新入会員の皆さんも全員参加で、
     9時に平和台駅集合し、概要説明の後、陸軍糧秣廠跡を始め赤城神社等本町界隈を案内しました。皆さんメモを執っての
     熱心ぶりでした。また、各箇所での質問も活発に出ましたが、残念ながら新入会員からの積極的な説明箇所がありません
     でした。途中、青野議員と陸軍糧秣廠跡と赤城神社でお会いし、最近の情報を話してくれました。
     県庁跡までの案内予定でしたが、広小路で12時近くになってしまい、流山駅で流鉄流山線の説明で解散しました。
   
           平和台駅前で概要説明               光明院にて
   
   
        光明院に新しく設置された案内標識            休館の一茶双樹記念館前にて
   
   
             近藤勇陣屋跡にて               常与寺にて
 
        11月7日更新  公民館秋行事班編成
    12月11日公民館秋行事班編成は以下の通りです。
第1グループ : 青柳・平本・中野和・塩崎・中川
第2グループ : 岡・佐久間・日野・佐藤弘・古瀬
第3グループ : 高橋・鈴木・岡本・千代田・馬場・渡部
※第3グループは新会員の研修グループとし私服着用で 実施する
 
        11月6日更新  定例会の報告
  昨日行われた定例会の要旨は下記の通りです。

・ 見世蔵の店内見学は7~8人を目途にしてほしいとのこと。今年、中里さんの作品が受賞したが、まだ
 店内に置いていないが見に来てくださいとのこと。案内時間がなさそうであれば店内に入らず先生方
 には改めて来てもらうことになる。

・ 県庁の正門の跡がどこにあったのか、流山小学校の150周年について、赤城神社祠碑について個人的に
 調べている結果を博物館に提出した。

・ 青野自治会長(市会議員)が、一茶の句碑を天晴工場跡地にある説明版のところに設置したいので市へ
 の要望書を書いてくれとのことで書いた。

・ 青野自治会長から来年、信濃町と姉妹都市締結25周年になるので一茶の代表的な句碑を建てたい。
 赤城神社にある一茶の句碑が目立たないので天晴工場跡地にある説明版のところに
移設したらどうか。
 また、一茶の胸像も同じところに建てたらどうかとも言っていた。

・ 12月11日の小金城趾の案内は、40名が20名に減った。参加者の調整をしてほしい。広報ながれやま
 には、11月11日に掲載される。

・ 前回、質問のあった流山市史跡認定の件は、博物館の方で検討している。
・ 今後のガイド活動スケジュールの説明の要点は、下記のとおり。
  ・ 11月19日教育研究会の案内終了は、16時30分までに流山北小学校に戻ること。
    当日雨天の場合は、現地案内は中止。事務局だけでパワーポイントで説明することになる。
    天気状況を見て前日までに実施するかどうか参加者にはメールで知らせる。
  ・ 12月3日視覚障害者の案内は、3,4班の担当であるが、一般の人と違い時間がかかるし、 注意事項
    もあるので事務局(関口)が相手と打合せするのでそれに従ってほしい。

     集合場所はケーズデンキの駐車場。赤城神社の階段を上らず女坂を歩いてもらう
  ・ 12月11日の小金城趾の案内は、20名に減ったので参加者の調整をしたい。歩く距離が長いので参加
    不参加を再度見直してほしい。参加できる人を事務局で2班に分ける。それ以
上に参加者があった
    場合は、私服で参加してもらい、3班とし小金城趾だけの参加も良いし、
自由参加としたい。
・ 約2年間ガイドのブランク期間があったので、ガイドの再開に当たりガイドの会の心得の説明があった。
  ・ NPO法人の法律を守ってほしい
  ・ボランティア活動保険等ほしい資料があれば事務局に問合せしてほしい。
  ・ 一茶双樹記念館の管理会社(新:(株)流山ツーリズムデザイン)と利根運河交流館の館長(新:若松文)
    が代わった。

事務局岡理事によるパワーポイントによる下記2題の説明があった。
  ・成顕寺・諏訪神社コース
  ・三輪茂呂神社・三輪野山コース 
 
 
 各班のガイド参加出欠表
 
 
 
 
 
 
 
    ・目安箱 (再掲)
 日頃のガイド活動で感じたこと、改善したいことなど会の改善に伴う建設的なご意見をお願いいたします。
また、流山本町を歴史的な町にするための良いアイディアがありましたら是非お願いいたします。
ご意見は画像をクリックしてください。
     たくさんの ご意見を 賜りたい    
 
    ・勉強会への投稿についてのお願い
 勉強会への投稿が少なくなっております。日頃勉強した成果を是非、投稿をお願いいたします。
投稿に当たっては、皆さんに理解を深めるために投稿の際、
簡単なコメントと本文、写真、図等の添付をお願いいたし
ます。
   
 
         11月2日更新   12月11日(土)の公民館秋行事のルートについて  事務局 
          公民館秋行事のガイドは、小金城趾駅ー馬屋敷緑地ー金杉口跡ー広徳寺ー名都借城趾・・・・・のコースです。
         達磨口跡、慶林寺の方へは行きません。健脚向きは、個人で小金城趾を一周する場合ですので誤解のない
         ようにしてください。金杉口跡の現地は、高低差約10mの階段を上るくらいですのでご安心を!
 
         11月1日更新    赤城祠碑について    田村副理事長
 
                   印刷は  こちら  
 
         11月1日更新    「赤城祠碑」の石碑の建立年を検討する  青柳理事長                 
   (本件は、10月末に掲載したため再掲載いたします。)
    赤城神社の階段を上り切った左側に「赤城祠碑」がありますが、この石碑が水没説や新規建立説、
昭和32年の三代目説といずれが正しいか具体的に状況や風景を掘下げ、現在の「赤城祠碑」につい
て検討をしてみました。
 
          赤城祠碑」
   (階段を上り切った左側にある





















 
 
 
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          11月1日更新  ゆうゆう大学初石学園講義報告  佐藤(茂)幹事
  ゆうゆう大学初石学園への講義に参加しましたので、実施模様を写真等で報告いたします。

実施内容
 ・資料   「映像でめぐる初石周辺地区のあゆみ」パワーポイント資料
 ・日時   令和3年10月28日9時30分~11時35分
 ・講師   田村哲三副理事長
 ・概要   初石周辺地区を中心とした各時代区分ごとのあゆみについて縄文海進の話や(ちょうど地震発生
     もあり)予定外の地球
の温暖化や関東沈没の話には、特に学生の関心が高かった。
       また、駄馬と米俵の関係等、クイズ形式設問の質疑にも、関心が高かった。
     *説明項目等はPDFのレジメ等の通り。

・出席者 ・ゆうゆう大学初石学園、受講生(32名)、公民館専門員(3名)
      ・田村副理事長、佐藤(茂)

 
 
 
 
          印刷は  こちら 
 
         11月1日更新  小金城趾を訪ねて  事務局 関口
    今回は、戦国時代に小金城を構え、東葛地方一帯を治め、流山にあった名都借城、前ヶ崎城、花輪城、深井城を
支配した高城氏ゆかりの本拠地である小金城趾と慶林寺、広徳寺を訪ねてみました。
小金城趾と広徳寺は、12月11日(土)に公民館秋行事でガイドの予定がありますが、参加される方は参考になれ
ば幸甚です。
現地を一回りするには長距離で、地形の高低差があり健脚の人向きです。馬場緑地、金杉口跡と広徳寺だけの
現地探訪で充分だと思います。(私は、健脚ではないので電動アシスト自転車で現地に行きました)
        
        地図の印刷は こちら
 
    戦国時代に、千葉氏の一族から出た高城胤吉が大谷口(おおやぐち)の小金城を築き、東葛飾地方一帯を支配して
いました。高城胤辰(たねとき)の代には、「国府台(こうのだい)の合戦」(1564年)で二度にわたり安房の里見氏と
戦い、大いに功績を挙げ、所領も広大な地域となり、繁栄しましたが、1590年の豊臣秀吉の関東攻めによって小金城
は開城します。流山にあった名都借城、前ヶ崎城、花輪城、深井城も開城することになりました。
現在は、そのほとんどが宅地化されてしまい、番場曲輪の一部のみが「大谷口歴史公園」としてわずかに整備されて
いる状況です。大手口および大谷口は宅地造成のため消滅しています。
国府台の合戦については、 こちらを参照
            説明図の印刷は こちら  
 
          説明図の印刷は こちら 
  ・本城、中城(なかじょう) : 小金城の中枢をなす場所で大手口から攻められても一番奥に位置し、しかも背後は高い
               崖になっており、背後から攻めることができない難攻不落の構造となっている。
・馬屋敷 : 馬が飼われていた場所、馬を調教する場所。
・根郷屋 : 家来の居住地(小金城鳥瞰図の大谷口付近と金杉口付近))
   
    小金城の歴史
 小金城(大谷口城)は、天文6年(1537年)9月に高城胤吉によって築かれ、高城氏は根木内城より居城を移して、胤吉、
胤辰、胤則と3代53年の居城となった。胤吉は城建設以前には近郊の栗ケ沢城、根木内城を根拠地として構えていたが、
小弓公方足利義明の進出に対抗するために大谷口に新城を築城して移った。

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、高城氏は北条氏に従い小田原城に篭城し、豊臣氏方の浅野長
政らに小金城が攻められ開城した。 その後、徳川家康の関東移封に伴い、穴山武田氏の名跡を継承し甲斐国河内領と
なっていた家康五男・武田信吉が入城する。信吉は文禄元年(1592年)に下総国佐倉城主として転封となり、小金城は
文禄2年(1593年)に廃城となった。
流山にあった名都借城、前ヶ崎城、花輪城、深井城も豊臣秀吉の家臣浅野長政によって攻められて開城となり、後、廃城
となった。
 
   高城氏三代について
   高城胤吉   高城胤吉 - Wikipedia
  高城胤辰   高城胤辰 - Wikipedia
  高城胤則   高城胤則 - Wikipedia
     
  現 状
 昭和40年代頃までは森林の中に遺構がほぼ完存していたが、宅地開発により、多くが消失している。残存した城跡
の一部が大谷口歴史公園として整備されており、北条氏関連の城跡で多く見られる畝堀や障子堀、土塁などの遺構が
残る。また達磨口にはかつて引き橋が架かっていたと言われている土塁と堀切の様な場所が残り、馬場と呼ばれる付
近にも土塁や空堀のの名残らしき物がある。
昭和37年(1962年)および平成3年(1991年)に宅地造成に際して松戸市によって発掘調査が行われており、多くの建物
跡、櫓跡、また鉄砲の弾や陶磁器などが発見されている。

1960年代ごろまでは本城への土橋と空堀が完全に存在していて、その写真は日本城郭大系に掲載されているが、現在
残るのは金杉口、達磨口付近の遺構だけである。最も戦闘的な主要建造物を有した「本城」「中城(なかじょう)」などは
昭和三十九年の宅地開発により消失している。近年(2010年代半ば)まで本城と言われる部分の所々に土塁が残ってい
たが、徐々に減りつつある。 本城、中城は城の中枢にあたる場所である。
 
馬屋敷跡と本城跡付近の建物は、高層マンションである。(小金城趾駅の跨線橋から撮影) 
  
 馬屋敷緑地


 
          同左  
  右側は高さ約10mの崖が続いている。
  現在は高層マンションが建っている。
  そこが馬屋敷があった場所である。

     大谷口歴史公園の碑
  左側が金杉口、右側に旧金杉口がある。
  虎口で一緒になる。


     
  大谷口歴史公園(碑文)

  ここは中世城郭跡で、東葛地域最大の
 勢力を誇っていた高城氏の居城の一部
 現在も残されている場所です。公園の創
 設にあたっては、大倉邦夫氏より寄付を
 いただき、遺跡の 保存と公園としての
 地域への還元に大いに役立てることが
 できました。これを記念して、この碑を
 建立するものです。
 なお、大倉氏は、都市公園の整備に顕著
 な功績があったとして平成8年度建設大
 臣表彰を受けられました。
       金杉口と呼ばれる北側の虎口
   に立つ門

 
    虎口(こぐち)お城は堀や土塁などで囲われているため、城兵が出入りするための出入り口のことを虎口という。
 
     金杉口跡(説明版) 

   ここは金杉口と呼ばれる小金城虎口(出入口)の一つです。小金城には大手口(東)、
  達磨口(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の四つの虎口があったとされています。
  西側の低地から城内に入ると正面と南側は高い急斜面にあたり北へ進むことに
  なります。
  ここは、三段(推定)の階段を持ち、最上段には門柱を立てたと思われる土壇(砂を突
  き詰めた径約60cmから1m、高さ約cm)が四ケ所見つかりましたが、その構造ま
  ではわかりません。
  奥に広がる広場は斜面部に土を盛って人工的に造った広場です。さらに奥へ進むと空
  堀があります。堀の外側を進んで行き、大勝院の裏手から城内へ入ったものと推定さ
  れてます。
                         松戸市
                         松戸市教育委員会
                           平成九年四月
   
   
   「障子堀」
  後北条の特長が良く現れている堀で、上から見ると、空堀の中に衝立障子のような掘り残し(障壁)があることから名付
けられた。障子堀は、曲輪(くるわ)の間を分断して敵の侵攻を阻止するものであるが、それをさらに複雑にすることで攻略
が難しくなる。
     現在の「障子堀」の状況
土で埋まってしまい当時の状況がわからない

         発掘当時の状況                      
     
    山中城の「障子堀」の例
   (静岡県三島市山中新田

              
   現在残っている番場曲輪の一部。
右側には、土塁が続いている。身を隠す程度の高さである。
      現地ビデオは こちら (削除)
    達磨口跡説明版と同じ内容が刻まれている。
 そちらを見てください。
 
     
 
 
   堀(畝 堀)(説明版)

  ここで発見された堀は、幅7m、深さ約3m(現地表面から)、と規模では普通です。
  しかし、堀底に断面がかまぼこ型の畝(高さ約90cm)が堀の方向と直行する向き
  に連続して造られた全国的にも珍しい構造をしています。この施設の利点は、侵入
  した敵が堀底の小溝に足をとられ、横への移動がしづらくなり、その敵を狙い討て
  ることだと云われています。特にこの畝堀は、畝部分が粘土層を掘り込んでおり、
  非常に滑りやすく、効果的となっています。
  堀底に加工を施した堀は、関東地方では小田原北条氏の軍事的勢力下にあった城
  に多く見られるところから、小金城(高城氏)の戦国時代末の状況が、古文書だけで
  なく、城の施設からも伺うことができそうです。
                         松戸市
                         松戸市教育委員会
                           平成九年四月
        
     
     
        畝 堀       
      現在の状況
 土で埋まってしまい当時の状況がわから
 ない 
 現地ビデオは こちら (削除)     
       発掘調査時点の状況                    


  
 山中城の「畝堀」の例



     
  
    小金城達磨口跡(説明版)

 小金城は、16世紀の後半、高城氏が本拠地としていた城でその規模は南北約600m、東西約800mに及ぶ県下最大級
の中世城郭です。江戸時代初期の正保3年(1646)に書かれた「高城家之由来書」によれば、享禄3年(1530)に築城
を始め、天文6年(1537)に完成したとされています。その構造は下総台地西端の複雑な地形(高低差約15m)を利用し、
さらに大規模な土木工事(削平、掘削、盛土)を施すことによって高さ2~3mの土塁、深さ10m前後の空堀を縦横にめぐら
せ、台地上を区画し、本城、中城、番場等9~10の曲輪を連続させる構造となっています。小金城には大手口(東)、達磨口
(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の4か所に虎口(出入口)があったとされています。伝承によれば、達磨口には昼間は架
け渡し、夜間は回転させる木橋が造られていたといわれています。
 小金城主の高城氏は千葉氏の一族、または千葉氏から分かれた原氏の一族といわれ、松戸市域での活動は、15世紀の
中頃に栗ヶ沢(現在の小金原)に館を築いたのに始まり、その後、勢力を増すごとに根木内城、小金城と本拠地を移してき
たと言われています。戦国時代の末には、小金城を拠点として現在の松戸、市川、船橋、鎌ヶ谷、沼南、柏、我孫子などを支
配し、東葛地方最大の領主、武将となりました。 
 この頃の高城氏は、小田原北条氏の軍事的勢力に組み込まれていました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによ
って北条氏は滅亡し、高城氏も運命を共にし、小金領主としての役割も終わります。
ここ達磨口跡は、昭和61年(1986)に大倉邦夫氏より土地1225.6㎡が松戸市教育委員会へ寄贈され、小金城の貴重
な遺構として保存されています。また、ここから西へ約300mで金杉口跡があり、土塁、畝堀、障子堀等が復元され、「大谷
口歴史公園」として公開されています。
                                平成十年三月  松戸市教育委員会
         達磨口
 大倉記念病院の左隣に「達磨口」がある。
 小金城に4つある虎口の一つ。
 虎口の両側には大きな土塁が現在も残
 されている。


          説明版
 




  入り口を入ると左右に大きな土塁がある。
 虎口の場所である。この写真は右側の土塁
 の手前に大きな「顕彰之碑」がある。
 大倉邦夫氏が土地を松戸市に寄贈し小金城
 の遺構として保存したという記念碑であ
 る。
 土塁頂上から撮ったビデオは こちら
(削除)
     
      本城にある城跡碑    
 本城にある城跡碑
急坂を上った右角にある。
 「小金大谷口城跡」の碑
 
     
    小金城跡(説明版)

 戦国時代の豪族で、東葛地方に勢力のあった高城氏の居城跡です。城の完成は天文6年(1537)とされています。
自然地形を巧みに利用した県下でも有数の規模をもつ城郭です。高城氏は、天正18年(1590)豊臣秀吉による
小田原攻めの際、北条方に加わったため小金城っも豊臣方の武将浅野長政の軍に攻められて落城します。
現在は、城のある台地上も宅地化が進み往時の姿を思い浮かべることも困難になりましたが、大勝院の西側にある大谷
口歴史公園内に土塁、柄堀(畝堀、障子堀)などの遺構を一部復元し、公開しています。
                                          平成十年三月  
                                          松戸市教育委員会
     
  
                           大谷口本城大橋
                流鉄流山線と交わる県道280号線の跨線橋に当時の名が残る。
  
     
    慶林寺
 1565年(永禄8年)、小金城城主高城胤辰の開基である。胤辰の父胤吉の奥方(月菴珪林尼)の菩提を弔うために建立した
もので当時は「珪琳寺」という名称だった
1591年(天正19年)、徳川家康が寺領10石を与えたときに「慶林寺」と改称した。
墓地には、小金牧と佐倉牧の管理に当たった綿貫氏の墓所もある
      
      市史跡 珪琳尼の墓所(説明版)

 月菴珪琳尼は、小金大谷口城を築いた高城胤吉の妻で13代千葉介昌胤の妹にあたり胤吉の死後(永禄8年(1565)2月
12日)剃髪して月菴珪琳尼と称し、鹿島神霊の辺に菴(いおり)結んだ。そして胤吉の没した翌月の3月12日に永眠した。
その子従五位下下野守小金城主胤辰は、珪琳尼追福のために同所に慶(珪)林寺を建立した。
なお、現在ある月菴珪琳尼の墓石は享保15年(1720)に子孫といわれる高城清右エ門が建てたもので、その銘に「胤辰の
妻」とあるのは誤りである
                                        昭和四十一年五月十七日指定
                                        松戸市教育委員会
   
    広徳寺
 広徳寺は、高城越前守胤廣が寛正3年(1462)栗ヶ澤に創建、大ロ一尊大和尚(永正15年1518年遷化)が開山した。
天文6年(1537)に高城下野守胤吉が当地へ寺院を移して開基、高城氏歴代の墓所として胤忠、胤廣、胤吉、辰胤、胤則五代
の墓がある。寺領200石を受領した大寺でしたが、天正18年(1590)の小田原北条攻めに際して小金城は落城、徳川時代には
寺領20石の御朱印状を受領、近隣に末寺を擁していた。

大正12年の火災で寺宝等を焼失し、鐘楼のみが当時の名残をとどめている。 
            広徳寺入口              本 堂  焼失を免れた鐘楼
     
 突き当りが高城氏の墓所
階段を上り切った左側)
 説明版
 高台に高城氏の墓がある
     
 
   高城氏の墓所(説明版)

     松戸市指定史跡  昭和四十一年五月十七日
広徳寺は曹洞宗の小金領内普及の中心となった寺である。
当寺は高城胤吉により栗ヶ沢に開山され、小金城主歴代のお墓がある。高城氏は天文七年(1538)に小田原の
北条氏に味方し、二度にわたり安房の里見氏と戦い、大いに功績をあげ、所領も広大になった。
天正十八年(1590)北条氏とともに豊臣秀吉軍と戦い、小金城は浅野長政に攻略され落城した。
現在の墓石は江戸時代に建立したもので、徳川氏に遠慮し、胤則の妻の家系である藤原氏を名乗っている。

                                     平成二十七年十月
                                     松戸市教育委員会

       高城氏代々の墓



        左から
        高城越前守  胤廣
       高城下野守  胤吉
       高城治部太夫 胤忠
      と刻んである。
       左から
       胤廣 胤吉 胤忠



     
 
        田島刑部少輔時定の墓
 高城氏の重臣で前ヶ崎城主であったとの
 説があるが詳細はわからない。

         亡僧さまの墓
 田島刑部少輔時定の墓の右隣にある。
 僧が修行中に亡くなったのを祀ってある

 
 
   
             
 
   




  左側の地図で赤色で囲った部分のジオラマ 
   
   
   
   
金杉口の畝堀   
   
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