・会員の皆さんへ。
「連絡の窓」を時々開いて、事務局からの連絡の確認や新情報を見てください。
新型コロナウイルスワクチン接種が始まりました。2回接種後、2週間経つと免疫力がつきますので
それまでは安心せずに十分な注意が必要です。
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7月31日更新 |
会員各位
オリンピックTV観戦と感染症対策でステイホームが続き、ストレスが蓄積している
今夏ですが、会員の皆様は元気にお過ごしのことと推察いたします。
史跡ガイドの会8月定例会を8月6日に予定していましたが、千葉県で緊急事態宣言
(8月2日~8月31日)が発出され、当日がこの期間に該当しますので残念ながら中止
いたします。理事会も中止いたします。
会員の皆様はワクチン接種がすでに終了した人も多いと思います。それでも5%確
率で感染するリスクが残っています。安心せずに感染防止に努めたいと思います。
9月定例会は9月3日(金)13時~15時、中央公民館第二会議室を予定しています。
コロナ収束で、10月1日からの予約ガイド再開を願っています。
ガイド予定表は こちら
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7月28日更新 訃報 |
秋元浩司様が、病気療養中のところ7月25日、ご逝去されました。享年87。
長年にわたり当会の活動に対しご協力をいただき、感謝の念に堪えません。
ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。
通 夜 7 月28日(水) 18:00
告別式 7 月29日(木) 12:00~13:00
式場 ライフケア流山会堂 (平和台駅イトーヨーカドー向い側)
なお、当会としては青柳理事長が代表として葬儀に参列いたします。
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7月25日更新 「土偶」についての新聞記事 事務局岡理事 |
土偶は縄文時代に作られた土製品で、安産・病気治癒の健康祈願や食料確保の天候祈願等の
祈りに用いられ、人間女性の乳房や臀部を強調した女性像が多く出土する
印刷は こちら |
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7月22日更新 流山北小学校先生への研修について 事務局 |
・21日行われた流山北小学校先生への研修は大変好評でした。若年層の先生方を対象のところ希望者が多く
特別支援学級の先生方も参加され、24名の参加者となり冷房の効いた図書室で14時から16時まで行わ
れました。当会からは岡理事、谷田(か)幹事、関口が出席しました。
・校長先生から、「子供達へ流山市の歴史を学んでもらうとともに先生達も知っておかなければならない。
今日はその第一歩である。」との挨拶があった。
・岡理事が、パワーポイントによる「流山の歴史早わかり」を約1時間、5分間の休憩後、「流山本町コース」
を約30分間説明し、「流山市の無形民族文化財」のビデオを約17分間放映して質問の時間としました。
・質問は、「流山に農民はいたのか」に対して、万葉集に「におどりの葛飾早稲をにへすともそのかなしきを
外にたてめやも」と詠われていることから平安時代から葛飾地域には早稲米が穫れた。江戸初期に江戸川
が整備されてから米が多く収穫できるようになった。
・終了後、3年生担当の先生からお礼の挨拶があった。「今日の講義で博物館や、図書館で勉強するよりも
わかりやすく流山の歴史について学ぶことができました。子供たちがより楽しく勉強できるように私も
頑張っていきたい。」
・ガイドの会からは、現在はコロナ禍で活動中止しているが、今秋から活動再開する予定なのでホームページ
から申込みをしてほしい。
・帰り際、校長室でコーヒーをご馳走になり、今の若い先生は流山の歴史を知らない、流山市史を読まなく
てはいけない、そう意味で今日は本当に有意義であった、と校長先生。
・配布資料。「歴史とみりんの街・流山を訪ねよう!」、「流山本町歴史散策のてびき」、「流山本町江戸回廊」、
パンフレット(新選組陣屋跡、閻魔堂、常与寺、浅間神社)等々、谷田(か)幹事が準備。
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7月17日更新 理事会の報告 事務局 |
16日に行われた理事会の報告をいたします。
要旨
・今年度の編成を下表の通り承認された。 印刷は こちら
(欄外コメント修正済み)
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・石戸谷さんが退会しました。研究熱心な熱意には感謝です。今後もお元気でお過ごしください。長い間お疲れさまでした。
・定例会は、8月から再開し、自由参加とする。(次回定例会は、8月6日13~15時 第2会議室)
・夏休み中の学童クラブの案内の予定は今のところない。
・ガイド活動は10月1日から始める。待機ガイドは、不特定多数のお客さんなのでコロナ感染状況の様子を見てから
決める。ただし、一般ガイド活動は、まん延防止等重点措置等が出た場合は、中止とする。
一班のお客さんの対応人数は、上限10人とするので、申し込み人数が多い時は複数班が対応する。
・待機ガイドは、土日別々の班が担当するように事務局で担当カレンダーを作る。10時から15時までの待機であるが、
班の中で調整してほしい。
・学校関係(先生等)は個別に検討して受ける。生徒人数が多い場合は、引き受けられない。
・新入会員の現地教育は、9月から事務局で本町界隈を案内する。
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「わがまち・ふるさと再発見」 98金子市之丞1
7月13日、「ASA江戸川台運河グッド・モーニング」のネット版が配信されましたので掲載しました。
「93六社神社と深井新田の渡し跡」~「98金子市之丞1」の印刷は こちら
「87香取神社(木)」~「92八坂神社」までの印刷は こちら (2021年2月号に掲載済み)
87以前は定例会で配布済み |
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7月11日更新 勉強会5題目 吉野家文書(日記)から金子市之丞のモデルを探る 田村副理事長
印刷は こちら |
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7月10日更新 勉強会4題目 長尾藩について 谷田(か)幹事 |
3 年前に館山市立博物館で田中藩本多家についての資料を得、この 3 月に長尾藩に関わる企画展が行
われ ることを知り、行って来ましたのでまとめ、報告します。
長尾藩とは、流山の一部を治めていた駿河国田中藩本多家が、明治に房総の長尾に移封した後の名称です。
4年後の 1871 年の廃藩置県により藩としての歴史を閉じました。
印刷は こちら |
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7月3日更新 勉強会3題目 |
永岡三郎兵衛は酒造人であったか?―資料から実態を探るー 田村副理事長
印刷は こちら |
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7月1日更新 事務局からの連絡 |
・7月2日の理事会および定例会は中止いたします。(再掲) |
理事会は7月16日(金)10時~12時中央公民館第六会議室で行います。 |
・「ガイド活動参加に関するアンケート」を未提出の方は早急に事務局まで提出をお願いします。
用紙は こちら
・勉強会の話題が少なくなっています。勉強された方の投稿を月末の27日までにお願いいたします。
会員の皆さんの内容理解を深めるために写真、図などの添付もお願いいたします。 |
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・勉強会 2題 |
1.・幕末流山騒乱の物証確認 「長崎二丁目名主根本忠兵衛の長屋門」
・恩田家文書の新選組流山本陣の長岡七郎兵衛と穀物仲間名簿の永岡三郎兵衛は、同一人物であることを
確認する 青柳理事長 印刷は こちら
注 青柳理事長からの注意がありました。下記の根本家の長屋門は、無人と思われる荒れた敷地内にあり、
外から直接見えないため屋敷内を通るので要注意とのことです。 |
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2. 陸軍糧秣本廠本所倉庫跡を訪ねて 事務局 関口(亘)
皆さんが「陸軍糧秣本廠流山出張所跡地」でお客さんに説明する時に必ず出てくる「本所にあった
糧秣倉庫が手狭まになったので流山に糧秣施設ができた」について本所糧秣倉庫はどのような場所な
のか、どのような歴史があったのか現地を訪ねてみました。2回目のワクチン接種後、2週間を過ぎ
たので少しは安心して現地に6月26日に行ってきました。
糧秣本廠は東京府東京市深川区越中島にありましたが、向島区本所にあった軍馬用の飼料倉庫が手狭
になったことと、飼料の自然発火の可能性などがあったため、本廠の出張所として流山に出張所が設置
されました。
軍馬用の干し草とワラの主産地は、関東地方では流山町を中心とする千葉県や、近隣の茨城県であっ
たため、流山町は江戸川の水運と鉄道という物資輸送に有利な立地条件を持っていました。
本所糧秣廠は大正12年の関東大震災により壊滅的な被害を受け、その後、錦糸公園として整備され、
昭和3年7月に開園された。流山に糧秣廠流山出張所ができたのは大正14年6月で、従って流山に糧
秣施設ができたときには、本所には既に糧秣廠倉庫はなく公園として整備中でありました。
陸軍糧秣廠とは、糧秣品の調達、製造、貯蔵および補給などを行った機関。「廠」は工場や役所を意味
する。本廠は越中島にありました。
糧秣とは、軍事用語で、兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を指す兵站(へいたん)に関す
る用語です。 兵站 : 戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの。物資の配給
や整備、兵員の展開や衛生、施設構築や維持などが含まれる。
流山では、軍馬用の干草、ワラを関東地方より買入れて貯蔵し、干草は圧搾工場にて40kg梱包に加工
し、東京方面へ運搬し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内省、警視庁に補給していました。
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糧秣本廠本所倉庫 |
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糧秣本廠本所倉庫跡
明治2年太政官の布達により従来の武家制度は廃止され武家下屋敷も解体されて農耕地に変わり、政府は明治24年
津軽藩下屋敷(約1万坪)を含む約3万余坪の広大な敷地に陸軍糧秣本廠本所倉庫を建設し、以後大正12年まで存続
していました。 |
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明治40年地図
西側(赤線内)が秣倉庫(軍馬の飼料)、東側(青線内)が兵器支廠倉庫(現錦糸公園)
当時の総武線駅名が「本所」となっている。駅北側には錦糸堀が一部残っている。
錦糸堀は埋め立てられ現在は道路になっている。津軽稲荷神社が糧秣倉庫の西端に現存し
ている。 |
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明治39~42年地図
西側(左側)に秣倉庫 、東側に兵器支廠倉庫があった。
時計メーカー精工舎(セイコー)はここで製造稼働していた。
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大正6年~大正12年地図
明治末期に、兵器支廠倉庫跡(現錦糸公園)を糧秣倉庫
として利用したようだ。大正14年以降、終戦まで糧秣倉庫
の機能は流山に移設された。 |
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江戸時代の切り絵図
本所糧秣倉庫は津軽越中守屋敷跡を含む広大な敷地に設置された。 |
現在の錦糸公園
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錦糸公園
関東大震災(大正12年)によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園(台東区、墨田区)、
浜町公園(中央区)と並んで計画されたものである。当地は元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫であったが公園として整備
され、昭和3年7月に開園された。 (Wikipedia より) |
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JR錦糸町駅
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道路の右側が糧秣倉庫の跡地(西側を望む)
左側が錦糸町駅側、道路は錦糸堀を埋め立てたもの。 |
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道路の左側が糧秣倉庫の跡地(東側を望む)
右側が錦糸町駅側、道路は錦糸堀を埋め立てたもの。 |
錦糸公園入口
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公園案内図
錦糸公園には野球場、体育館、テニスコート、プール(屋外)
の運動施設があります。毎年10月には「すみだまつり」が開催
されて賑わいます。
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公園内は家族連れで賑わっていた
東京スカイツリーとオリナスモール
オリナスモールとは
明治26年から平成9年までこの地にあった時計メーカー精工舎
(セイコー)の工場跡地の再開発事業として、東京建物が中心とな
って開発され、平成18年に開業した。 専門店の入る「オリナス
モール」、大型商業施設の入る「オリナスコア」、オフィスビル
「オリナスタワー」、マンション「ブリリアタワー東京」の、4棟
で形成される。 |
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千種稲荷神社 |
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千種稲荷神社 |
明治時代、旧陸軍糧秣廠本所倉庫が当地に建設されることとなり、陸軍省は敷地内にあった社殿を撤去した。
その後、同倉庫や周囲に火災が頻発し、陸軍省は対応に苦慮するようになる。
しかし、撤去したままであった当社を旧位置に再建したところ、火災の発生は収束したという。
1923(大正12)年の関東大震災発生時には一帯が灰燼に帰したが、当社は少しの被害も受けなかった。 (由来書より)
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千種稲荷神社 (由来書)
千種稲荷神社は江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが寛文から延宝の20年間(徳川4代将軍家綱の時代)の
長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ更に其の後この地を武家の下屋敷の敷地として整地を行いなお商家の営業も地域
内に許可され加えて横十間川が当時船運の盛んな処であった関係で武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃
より此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後徳川幕府は明治政府に替り明治2年(1869)太政
官の布達により従来の武家制度は廃止され武家下屋敷も解体されて農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも此の稲荷社は保護
されて郷土の守護神として残されました。
其の後政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設し其の敷地内に此の稲荷社があり陸軍省は、敷地整地に際しこの稲荷社を取払
いし処、其の後倉庫並びに周囲に再三火災発生し陸軍省も面目問題として苦慮を重ね後になり敷地内より取払ったままになってい
た稲荷社に気付き旧位置に再建して祀りし処、不思議にも其の後火災等全くなくなりました。大正12年(1923)の震災には此の
地一帯は灰燼に化したが稲荷社には少しの被害も受けませんでした。昭和3年(1928)7月18日復興局の手により創設された錦糸
公園も開園とあり同じ頃、神田より製菓業者が公園の周辺に集団移住し営業を開始せし処早々より町内に火災多発して町民は不安
に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが昔より此の地に祀られて有った守護神が公園建設の際園内の何れかに放
置されたままに成っているとの言葉に町内有志により探し出し公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無く
なり又、商売繁盛、災厄消除当諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和20年(1945)3月10日の
空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和29年(1954)千種講世話人相計り、戦
後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ其の年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渡り工事を重ね境
内の整備を完了した次第であります。昭和30年(1955)5月18日付を以って右建物一切を東京都の申し出により都に寄贈致し保
存と管理を千種講が委任されました。その後昭和40年(1965)4月から墨田区の公園となりました。
昭和50年(1975)千種講より春秋2回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願って
いる次第であります。
(趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より) |
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津軽稲荷神社
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津軽稲荷神社位置
周囲は高層マンションに囲われている。
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津軽稲荷神社は明治時代の廃藩置県で弘前藩関係者が去り、
旧下屋敷跡地は陸軍糧秣廠となったが、稲荷社はそのまま
残り「津軽稲荷神社」と呼ばれるようになった
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津軽稲荷神社由来
津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋
敷にて一万坪は明治四十三年の大水害と共に拂下られ太平町
一丁目町会の所有となる。
昭和七年町名変更の際錦糸一丁目町会の守護神となり祭神は
伏見稲荷神社の分神にて町民の信仰厚く大正十二年関東大震
災及昭和二十年戦災の為焼失昭和三十五年拝殿及社務所会館
再建落成致しました。又弁財天は江ノ島弁財天の分身で鳥居は
明治百年を記念して昭和四十四年再建されました。町民一同之
信仰の的とされて居ります。尚津軽華子様常陸宮様との御結婚
之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂
戴致しましたので神社内に保存してあります。
昭和五十八年 明友会
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本 殿 |
弁財天 |
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津軽稲荷神社 墨田区HPより
「本所に過ぎたるものが二つあり、 津軽大名と炭屋塩原」で有名な弘前藩津軽家下屋敷の跡です。下屋敷とは郷土の
産物を保管したりする大名の私邸のことで、津軽藩は墨田区内にいくつかの中屋敷を持っていました。明治時代に屋敷
を撤収した後は陸軍が兵士の食料を保管する糧秣廠を設置し、この稲荷だけが残されました。家には守護神として屋敷
神(稲荷)が必ず祀られました。屋敷神は土着性が強く、他に移動しませんので、置いて行かれることが多いものです。
この稲荷もそのひとつでした。なお、目の前を走る道路にはかつて南割下水と呼ばれる堀割が流れていました。
ここは区内にいくつか推定され「おいてけ堀」推定地のひとつでもあります。
*おいてけ堀
江戸時代の頃の本所付近は水路が多く、魚がよく釣れた。ある日仲の良い町人たちが錦糸町あたりの堀で釣り糸を垂
れたところ、非常によく釣れた。夕暮れになり気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」という恐ろ
しい声がしたので、恐怖に駆られて逃げ帰った。家に着いて恐る恐る魚籠を覗くと、あれほど釣れた魚が一匹も入
っていなかった。
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陸軍糧秣本廠越中島本廠について |
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陸軍糧秣本廠越中島本廠
江東区の越中島は、江戸時代に旗本榊原越中守の屋敷があったことから越中島と呼ばれるようになった言われています。
幕末の1855年には、異国船の来航などに対応するために越中島調練場が作られ軍事訓練が行われました。明治政府は維新後、
そのまま練兵場として利用、練兵場は明治24年には廃止され、跡地には陸軍糧秣本廠(明治30年)や憲兵隊施設、東京
商船学校(現東京海洋大学)などの施設が設置されました。
糧秣本廠とは部隊の兵員や軍馬に食料や飼料を供給する部署で敗戦までこの場所にありました。
現在は倉庫やマンション、江東区のスポーツセンターなどとなり、軍用地の跡はまったくありません。
余談 : 私が若かりし頃、京葉線(東京駅ー新木場ー舞浜―西船橋ー蘇我駅)の内、越中島トンネル工事を担当し、シールド
トンネル工事の計画、設計、工事発注の責任者として勤務していました。当時ここが糧秣本廠跡とは知らなかった
のですが、現在になって流山市と間接的に「縁」があったのは感慨深いものをがあります。 |
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陸軍糧秣本廠戦時設備配置要図 |
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陸軍糧秣本廠流山出張所跡について |
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陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑
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千草稲荷 |
元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について
当所は元陸軍馬糧倉庫として、東京本所錦糸堀の旧津軽藩屋敷跡にあったが周辺の人家増加して火災の危険を生じたため流山に
移り、大正十四年七月一日開庁、敷地三五、二六〇坪建物七、五九七坪(倉庫二〇棟、事務所、工場等一五棟)であった。業務は軍馬用
大麦、燕麦、高粱、牧草は本廠の指示により、また干草、ワラは関東地方各都県より買入れて貯蔵し、干草は圧搾工場にて四〇瓩梱包に
精撰加工し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内省、警視庁に補給した。また所管下の習志野、駒沢支庫がこれを補足した。なお江戸川
岸に架空輸送機があって舟運の荷役に用いられ、ガラガラと称され名物であった。流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの
主産地が千葉、茨城県下でその収集、補給に水陸両運の便が得られたためである。かくて流山は特徴ある有名な町となった。やがて
終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し接収された。その後構内及び職員共に運輸省東京鉄道局所管となり、特殊物資(進駐軍返
還の各軍用品)を受け入れて整理、出納する鉄道用品庫流山支庫として6カ年余つづいたが、国鉄改革のため、昭和二十七年三月五日
閉止され大蔵省を経て野田醤油並びに東邦酒類両会社と流山町に払下げられ、現在の状態となった。回顧すれば、大戦中は敵機の攻
撃目標となり、爆弾も投下され、且つ東京糧秣本廠が空襲のため全焼するや、その業務の一部が当所に加重されるなど重大任務の遂
行と防空対策とで職員は殆ど不眠不休の苦労を重ねた。さらに終戦直後は軍廃止のため全員失職の運命に遭い、物資の欠乏、生活の
困窮は実に甚しく、またともすれば流言飛語に迷わされがちな不安の中にあって、複雑な引継ぎと残務処理を一同一糸乱れず誠実に
無事に完遂した。その労苦多としたい。
右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識とし、後代の参考に供する次第である。
昭和五十五年八月十五日
元陸軍糧秣本廠流山出張所長
記念碑建設委員長 瀧上浦治郎
建立者氏名裏面参照
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