・会員の皆さんへ。
「連絡の窓」を時々開いて、事務局からの連絡の確認や新情報を見てください。
新型コロナウイルスが変異して全国的に蔓延し、感染しやすい状況になってきています。
今まで以上に十分な注意が必要です。
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5月21日更新 雨野監事のメールアドレスの変更 |
新アドレス amanh.0211@gmail.com |
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5月13日更新 総会の結果報告について 事務局より |
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5月13日更新 柏厚生総合病院へワクチン接種を予約された方へ
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・JR柏駅から無料の送迎バスが出ていますのでご利用ください。乗り場は時刻表の左下に書いてあります。
時刻表は こちら |
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5月13日更新 ゆうゆう大学東部学園への講義始まる 佐藤(茂)幹事からの報告 |
・12日行われたゆうゆう大学東部学園への講義についての報告がありました。
これは、ゆうゆう大学の今年度講座計画の一環として行われたもので、当会では最初の講義でした。
今回は「映像でめぐる東部地区のあゆみ」で、各学園ごとに「地区のあゆみ」または「地区の史跡」を当会
が講義することになっています。 講義風景は こちら |
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5月12日更新 流山文化協会伝統芸能発表会のお知らせ 塩崎幹事からの情報
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・「おおたかの森お囃子会」中村代表から下記のとおりお知らせがありました。 |
これは昭和56年6月発行の「流山研究におどり3号」に記載された青木更吉氏による「ヨカヨカ飴屋物語」に
登場する飴屋歌を熊坂先生が楽曲として復活させ、あわせて歌と踊を発表するというもの。
その他、落語、踊りなどあります。青木先生、熊坂先生方をゲストとして来席されるとのことです。
趣味のある方、ない方もコロナ対策を十分されて見に来てください。
資料は こちら
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5月11日更新 新型コロナウイルスワクチン接種スケジュールについて 流山市 |
・流山市が発信している「流山市安心メール」からの情報で、ワクチン接種時期が早まるという情報です。
新型コロナウイルスワクチン接種については、65歳以上の方の接種スケジュールが前倒しになります。
下記スケジュールに沿って予診票を郵送します。接種医療機関等や予約方法などは同封の案内をご確認ください。
接種スケジュールについて
・高齢者施設入所者及び従事者:5月下旬から順次接種開始
・80歳以上の方:予診票郵送5月17日(月)から、予約受付開始5月24日(月)、接種開始5月31日(月)
・75から79歳の方:予診票郵送5月24日(月)から、予約受付開始5月31日(月)、接種開始6月1日(火)
・70から74歳の方:予診票郵送5月31日(月)から、予約受付開始6月7日(月)、接種開始6月8日(火)
・65から69歳の方:予診票郵送6月7日(月)から、予約受付開始6月14日(月)、接種開始6月15日(火)
・16歳から64歳の方のうち基礎疾患のある方は、9月中旬以降接種開始を見込んでいますが、接種状況により前倒し
する場合があります。
・その他の方の接種開始は、ワクチンの配分量が見通せないため、現時点では不確定です。
※上記の内容は現時点でのものであり、今後の状況によっては変更する可能性もあります。
市ホームページリンク
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/information/1007525/1024556/1029641.html
【問い合わせ】
新型コロナウイルスワクチン接種コールセンター 0570-017-894
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5月7日更新 理事会の延期およびガイド活動再開時期について |
・理事会は、5月11日までのまん延防止等重点措置が流山にも適用されましたので5月7日(金)に予定しておりました
理事会は延期となりました。今後の状況をよく見て次回開催日時を決めたい。
・ガイド活動再開時期については、青柳理事長と事務局で検討の結果、会員の皆さんがワクチン接種終了時期を考えて
「今秋」を目途といたします。ただし、ゆうゆう大学の各学園での講義は、5月から活動再開といたします。 |
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5月1日更新 令和3年度の総会について |
新型コロナウイルスの変異株による感染再拡大時期と重なったため、昨年度と同様に、今年度総会は書面で
議案の賛否を記入回収する書面表決方式とさせていただきます。
添付ファイルの第1号議案から第5号議案について、書面表決書に議案毎に賛否をどちらかの欄に○印を記入して、
5月7日までの必着で事務局宛て返送ください。書面表決による総会成立は、表決書100%回収が条件になります。
回収にご協力ください。
回収は以下の方法でお願いします。(事務局ではFAXがありませんので、FAX送信は不可
です)
1.書面表決書(Excel)に直接、日付、住所、氏名と賛否欄に○印を記入したファイルを添付してメール返信してく
ださい。 この場合は、事務局で受け付けたファイルを印刷したものに、後日捺印して頂きます。
2.PCで印刷して、手書きで賛否蘭に○印記入し、氏名を自著したものを郵送してください。この場合は捺印不要で
す。
3.PCで印刷して、手書きで賛否蘭に○印記入し、氏名を自著したものをスキャンしてできたイメージデータファイ
ルを作成し、これを電子メールに添付して返信してください。この場合も捺印不要です。
メール返信アドレス:k-toyoguchi.edogawa@abelia.ocn.ne.jp
郵送先:〒270-0115 流山市江戸川台西2-254 豊口 健
スマホのため添付資料を見ることのできない会員には事務局から郵送いたします。
今後の予定(理事会、定例会場所:中央公民館第二会議室)
・5月7日(金) 理事会
・5月12日(水) ゆう大東部学園講義(田村副理事長)
・6月4日(金) ゆう大南流山学園講義(青柳理事長)
・6月8日(火) 理事会、定例会
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☆ ワクチン接種の予約始まる(再掲) 江田幹事からの情報 |
柏厚生総合病院でワクチン接種の予約が始まっています。市外の人でも予約が可能です。
予約サイトから予約ができます。電話予約の場合は診察券が必要です。
当会の江田さん、岡さん、森さんも予約しました。私(関口)も1 回目(5月21日)、2回目(6月11日)の予約をし
ました。5月分、6月分もまだ予約可能です。
柏厚生総合病院へは柏駅からバスで約15分です。ワクチンはファイザー社です。
予約サイトはこちら。 https://reserva.be/kashiwakousei21
接種当日は ①接種券(クーポン券) ②予診票 ③身分を証明するものが必要です。
予診票は 厚生労働省のHPから印刷してください。
https://www.mhlw.go.jp/content/000739379.pdf
流山市の予約は、5月下旬に送付される予約票によります。
5月1日の「広報ながれやま」によると、75歳以上の接種予定は6月下旬から、65~74歳は8月上旬からとなって
います。 |
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☆「流山市指定記念物(史跡)」認定について 青柳孝司
流山本町には多くの史跡があり、市指定の史跡は「小林一茶奇遇の地」しかありません。
「新選組近藤勇本陣跡」
など全部で7か所について市の史跡認定を受けるためガイドの会と地元自治会長との連名で、市長と教育長にお願
い書を近々提出する予定です。 現在、各自治会の中で取りまとめをしているところです。実現出来ればガイドし甲斐
があると期待しています。 |
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続きの資料は こちら |
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☆小学校社会副読本「わたしたちの流山」について 谷田かをる幹事
「小学校における地域学習」について3,4年では、社会科教科書の他に身近な地域を学習するために千葉県の
内容を扱う副読本「すすむ千葉県」と流山市の内容を扱う副読本「わたしたちの流山」が5年ぶりに改訂になり
ました。
流山に県庁があったことや歴史的文化財、伝統的な行事など歴史や伝統行事に関する内容が無くな
り、これらを知らない子供たちが増えることを懸念します。 |
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目安箱 (再掲)
日頃のガイド活動で感じたこと、改善したいことなど会の改善に伴う建設的なご意見をお願いいたします。
ご意見は画像をクリックしてください。 |
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勉強会2題 |
1.浄円坊のあった場所について (前回の「旧流山村の周辺部村々の庚申塔関連話」の続き) 佐藤(茂)幹事
寺社にある庚申塔等の石神仏の多くは、かつては路傍にあったものと諸先輩の方々から、常々教えていhただいています。
今回は現在、光明院にある「大日如来庚申塔」について、かつて設置されていた「浄円坊」は何処にあったのかを、設置当時
から近くにお住まいだった方々から、直接お話を聞く事が出来ましたので、先月の追加レポートです。
資料は こちら
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2.「近藤勇終焉の地を訪ねて」 事務局 関口(亘)
4月25日は近藤勇の命日ですが、当日は東京都に「非常事態宣言」が発出される予定でしたので、前日の24日に板橋に行
き近藤勇が処刑された場所はどこか、板橋刑場は存在していたのか、それと旧中山道の板橋宿を訪ねてみました。
近藤勇と土方歳三の供養祭は毎年、親族が集まって寿徳寺の住職さんが執り行っていましたが、今年もコロナの影響で中止と
なりました。
本場所は、ガイドの会に入会した時、同期の皆さんと中野隆志さんの案内で近藤勇終焉の地を訪ねました。あれからもう7年が
経ちました。
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板橋駅のすぐ近くに供養塔があります。 |
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近藤勇の供養塔 |
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毎年、寿徳寺が近藤勇の命日に近い日の日曜日に近藤家
(宮川家)と土方家(佐藤家)が参列して供養祭が行われる。
今年も昨年同様コロナの影響で中止となりました。
寿徳寺:幕末に新選組近藤勇他隊士達の菩提寺となり、近藤
勇処刑後、境外墓地として現在板橋駅そばにある近藤
の墓地の管理及び命日における供養をしている。
北区滝野川4-22-2 JR板橋駅から徒歩約15分
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新選組局長として幕末に活躍した近藤 勇は、慶応4年(1868)
4月25日板橋で処刑されました。函館で戦死した土方歳三を
はじめ新選組隊士と共に供養塔が建てられました。
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碑の正面右側に「近藤勇宜昌」、左側に「土方歳三義豊」と
刻まれています。墓碑の左右には新選組隊士110名の名前が
刻まれていますが風化により名前が読みにくくなっています。
近藤勇の諱(いみな)は「昌宜」であり、碑には「宜昌」と刻ん
であり、石工の刻みまちがいと思われる。
隊士のひとりであった永倉新八が発起人となって明治9年5
月に造立しました。
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近藤勇の石像
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近藤勇埋葬当初の墓石
慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は、中山道板橋宿手前
の平尾一里塚付近に設けられた刑場で新政府軍により処刑さ
れました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し
離れたこの場所に埋葬されました。 北区HPより |
永倉新八の墓
松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範
を務めた。明治期に杉村義衛(すぎむら よしえ)と改名し、
北海道樺戸集治監(刑務所)の撃剣師範を務めた。
札幌、小樽、当地の3か所に墓所がある。 |
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東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
近藤勇と新選組隊士供養塔
北区滝野川七―八ー1 寿徳寺境外墓地
慶応4年(1868)四月二五日、新選組局長であった近藤勇は
中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により
斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より
少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治九年(1876)五月に隊士の一人であり
近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕御
典医であった松本良順の協力を得て造立されました。高さ三.六
メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文
がみられます。正面には、「近藤勇 宜昌 土方歳三義豊 之墓」
と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されて
います。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が宜昌とされてい
ることについては明らかになっておりません。
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に
合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は
「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日
発起人旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田
四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなって
います。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった長倉ですが、晩年
は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近
藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新
選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財で
す。
平成一六年三月
東京都北区教育委員会
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板橋刑場
板橋刑場は、江戸時代末期に現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近に一時的に存在した刑場。
当時の中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近、現在のJR板橋駅北付近であった。現在では商業地域となっており、当時の面影は
全くありません。近藤勇が処刑された場所は、平尾一里塚付近の馬捨て場であったと考えられるが確証はありません。
現在では馬頭観音が建てられ中山道で死んでいった馬が祀られています。 |
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馬頭観音 |
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馬頭観音の祠
馬捨て場がこの付近にあったとされている。近藤勇が処刑されたのはこの馬捨て場とする説があるが不明。
板橋刑場は元々存在せず、近藤勇を処刑するために一時的に存在したようだ。
処刑場について墓守の寿徳寺と板橋観光センターに問合せしたところ、どこの場所か分からないということであった。
処刑場があったとすれば、そこは公園になっているであろうし、現地は建物がビッシリ建っているので場所を特定したら
大問題になるとの配慮と思われる。流山の飛地山処刑場の場所の話は、大問題となるのでガイドとして絶対に説明しては
いけないと思う。
現在道路に面している馬頭観音の祠の付近を掘れば馬の骨が出る可能性があると思われます。
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平尾一里塚 |
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正面信号機の後ろ側に平尾一里塚があった場所であるが
当時の面影が全くない。 |
平尾宿の始まりはJR板橋駅付近の踏切より少し西側である。
平尾宿、中宿、上宿の三宿を合わせて板橋宿という。 |
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板橋宿について
板橋宿は、日本橋を起点に、武蔵、上野、信濃、美濃、近江を経由して京都三条大橋に至る69宿の第1番目の宿場。
日本橋より2里半(約10km)のところに位置し、宿場の長さは15町49間(約1.7km)、江戸に近い方から平尾宿、
仲宿、上宿に分けられ、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠54軒がありました。板橋宿は、中山道最初の宿駅であるとともに、
江戸の町場と近郊の村とを結ぶ交通の拠点として、江戸から出ていく人々と江戸へ入る人々が行き交う江戸の出
入り口(玄関口)の役割を果たし、その往来で大いに賑わいました。のちに、東海道の品川宿、奥州道中の千住宿、甲
州道中の内藤新宿とあわせて「江戸四宿」と総称されるようになりました。
現在でも、「道中目安の橋」として知られていた石神井川にかかる「板橋」や皇女和宮下向の折には菰(こも)を被せ
迂回して通ったといわれる「縁切榎」が残されており、往時を偲ばせています。 |
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赤く囲った史跡名をクリックすると説明写真が表示されます。 |
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平尾追分 平尾宿脇本陣跡 |
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平尾追分(中山道と川越街道との分岐点)
左の道路が川越街道の始点、右の道路が旧中山道、
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板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡
豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねた。
近藤勇が処刑までの間ここで過ごした。
現在はマンションに変貌しています。 |
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平尾宿脇本陣跡 |
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植込みの中に説明板があります。
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板橋宿平尾町脇本陣跡
立派な石柱(御影石)が建っていました。 |
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板橋宿平尾脇本陣豊田家
豊田家は、板橋宿の問屋、脇本陣、平尾の名主を務めた家で
あり、代々市右衛門を名乗っていました。天正一八年(一五九
〇) 徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと
伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれて
いました。
文政四年(一八二一)、当時平尾に住んでいた俳諧師匠の加藤
曳尾庵(かとう・えいびあん)は、日記風随筆「我衣」(わがこ
ろも)を起こしました。その中に、中山道を経由して江戸での興
行に向っていたペルシャ産のラクダが、当家の奥庭に引き入れ
られている記事があります。曳尾庵はラクダのスケッチととも
に、江戸周辺の多くの人びとが、その姿を一目見ようと当家に
押しかけた様子を記録しています。
幕末から明治にかけての当主である喜平次は、煎茶道に傾倒
し、「鉄蕉」の号を持つ茶人でした。そのコレクションを中心
とした「脇本陣豊田家資料一括」は平成八年度に区登録有形文
化財となっており、文化サロンとなっていた宿場の姿を伝えて
います。
慶応四年(一八六八)四月、下総流山で新政府軍に捕えられ
た近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田
家に幽閉されていました。
平成一九年三月
板橋区教育委員会 |
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板橋宿本陣跡 |
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板橋宿本陣飯田家屋敷跡
注意しないと見過ごしてしまう
(目印は「ライフ」というスーパーマーケット)
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板橋宿本陣飯田家屋敷跡
板代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡。
参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが
休憩した。
ここにも立派な石柱(御影石)が建っていました。 |
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板橋宿本陣飯田新左衛門家
本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸
より二里半(約10km)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用
いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。
また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場とし
ても機能していました。
板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたよう
です。宝永元年(一七〇四)、当家は飯田本家より別家していま
すがその際、世襲名「新左衛門」と本陣・問屋役を引き継いでい
ます。また併せて、屋敷地三五九坪、田畑一.五町余(約一万六
〇〇〇㎡)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。
なお、当家三代目新左衛門珎儀(ちんぎ)の遺言状から、別家後
の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定され
たことが窺がえます。
本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪九七坪、門構え玄関
付の建物でした。また、本陣指図からは、間口、桁行ともに一二
間半(約二二.五m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間の
ほか、御膳所や一八畳の玄関などを備えていたことが分かりま
す。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋
宿の性格を示しています。
本陣の建物は明治二十三年(一八九〇)に火災に遭い消失しま
したが、昭和三十九年(一九六四)、明治期に建てられた母屋の
解体時、床板として転用されていた関札(せきふだ)が見つかっ
ています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に
登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。
平成二十三年三月
板橋区教育委員会
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中宿脇本陣跡 |
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中宿脇本陣跡
代々、宇兵衛家を世襲し、板橋宿中宿名主を務めた脇本陣
飯田家の屋敷跡。
幕末には14代将軍家茂へ降嫁する皇女和宮が宿泊し、また
明治初年に大宮氷川神社に行幸する明治天皇が休憩した。 |
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板橋宿中宿名主飯田家跡
当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(一七〇四)に
本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて
名主、問屋、脇本陣を務めました。世襲名は宇兵衛。
飯田家は、大坂の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内
の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりまし
た。元禄期頃の宿場絵図には、当家の南側に将軍が休息するた
めの御茶屋が設けられており、元和~寛永期に板橋の御林で行
われた大規模な鹿狩りの際に使用されたとみられます。そして
当家が御茶屋守としてこれを管理していたと思われます。なお、
御林四〇町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。
江戸時代を通じ、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養
子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら中山道板橋宿
の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持、運営にあたってき
ました。
そのような中で、文久元年(一八六一)の和宮下向に際して
は、宇兵衛家が本陣役となっています。その後も慶応四年(一
八六八)岩倉具定率いる東山道軍の本営となり、明治初期の明
治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました。
平成二〇年三月
板橋区教育委員会
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板橋 |
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板橋の地名の由来となった橋(当時は木製の太鼓状の橋)
旧中山道の仲宿と上宿との境となっている。
日本橋から2里25町33間(10km642m) |
石神井川に架かる板橋
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板 橋
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来すると
いわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけ
て書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名と
なり、明治22年に市制町村制が施行されると町名になりまし
た。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板
橋の名称が採用されました。
板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間
(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称
し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と
呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる
中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、こ
の橋周辺も非常に賑やだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2
m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年
(1798)と天保年間の二度修復が行われたが分かっています。
近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自
動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋
に架けかえられました。
現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架け
かえられたものです。
平成十二年三月
板橋区教育委員会
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縁切榎 |
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縁切榎(えんきりえのき)
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江戸時代から板橋宿の名所として名高かったこの縁切榎。
「悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれる」といわれ、庶民の
信仰を集めていた。
皇女和宮が14代将軍家茂に嫁ぐ際に、この榎を避けて遠回りし
たという。立派な御影石ですね。 |
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写真左側には、たくさんの絵馬が結んであった。
離縁の願い事が書かれているのだろうか。それとも難病平癒
か、断酒か、シールが貼ってあり内容は分からない。
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縁 切 榎(えんきりえのき) (板橋区登録文化財)
江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤
登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木
があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるよう
になりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることを
おそれ、その下を通らなかったといいます。
板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久
元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例
にならい、榎を避けるための迂回路がつくられています。その
ルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬
道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ
至る約1キロメートルの道のりでした。
なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際
に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書
(ふれがき)の内容が伝わったものと考えられます。
男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を
剥ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、
霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代
以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在
も板橋宿の名所として親しまれています。
平成十八年三月
板橋区教育委員会
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青色四角で囲った史跡名をクリックすると説明写真が表示されます。 |
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その他 寺院 |
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東光寺 |
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浄土宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来。創建年代は不明。加賀藩下屋敷の拡張によって延宝7年(1679)に現在の場所に移転。寛文2年(1662)の庚申塔や区内最大級の石造地蔵菩薩座像がある。明治になって板橋に移住した子孫によって建立された宇喜田秀家の供養塔などがある。
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庚申塔 |
宇喜田秀家の供養塔 |
観明寺 |
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真言宗豊山派のお寺で、本尊は聖観世音菩薩。創建は南北朝期と伝えられる。山門入口には寛文元年(1661)の庚申塔がある。境内には加賀藩下屋敷から移築したと伝えられる豊川出世稲荷が祀られている。
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寛文元年(1661)の庚申塔 |
本殿 |
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文珠院 |
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真言宗豊山派のお寺で、本尊は文珠菩薩。江戸時代初めに飯田家が、延命地蔵の境内を整備したことから始まる。境内入口には閻魔大王像が祀られ、墓地には加賀藩主前田吉徳の姉裕仙院に仕えた飯田静の墓碑や遊女の墓などがある。
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本殿 |
閻魔大王像 |
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寿徳寺 |
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鎌倉時代、当地を訪れた武士によって本尊の観世音菩薩を安置したことに始まると言われている。
本尊は 谷津子育観音として、昔より親しまれた。
幕末になり 新選組近藤勇他隊士達の菩提寺となり、近藤処刑後、境外墓地として現在板橋駅そばにある近藤の墓地の管理及び命日における供養をしている。
近藤勇の墓は、寿徳寺の境外墓地である。
北区滝野川4-22-2
JR板橋駅から徒歩約15分
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本殿
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近藤勇像
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谷津子育観音(石神井川沿いにある)
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