モデルコース

 
     各コースの所要時間は2~3時間です
     下記モデルコース以外に、お客様のご要望によるコースも可能です。
    *ガイド中の事故は自己責任となっておりますので、自動車等には十分気を付けてください。

   

  図中のコース名をクリックすると詳細が見られます。 
 コース名                            見 ど こ ろ
  本町コース  


  新選組流山本陣跡

 ・江戸時代に田中藩本多家という大名屋敷があったところです。(加村台御屋敷跡)
 ・江戸時代中期には小林一茶が15年間流山を訪れ俳諧の指導にあたりました。(一茶双樹
  記念館)
 ・江戸時代から現在なお操業しているみりん工場があります。(流山キッコーマン((株))
 ・幕末に新選組が流山に来て近藤勇と土方歳三が最後の別れの場所となりました。(新選
  組本陣跡)          
 ・幕末から明治、大正時代に建てられた当時の建物が現在なお店舗として点在しています。
 ・明治初期、葛飾県と印旛県が誕生した時、流山に県庁が置かれた場所です。(葛飾県印旛県
   県庁跡)
 ・千葉大学教育学部の発祥の地であり、千葉県の近代教育が流山から発祥しました。
  (常与寺)
 ・“流山”という地名の発祥となったと言い伝わっている神社です。また、「大しめ縄行事」は
  市指定無形民俗文化財です。(赤城神社)
  利根運河コース


      利根運河

 ・明治23年に利根運河が開通し、物資輸送の大動脈となりしました。
 ・オランダ人土木技師ムルデルの功績をたたえ顕彰の碑が建てられました。
 ・利根運河の発展を祈願して利根運河八十八個所霊場が利根運河周辺に建てられました。
 ・戦国時代にまぼろしの深井城がありました。
 ・古代、この地が葛飾早稲米を産しており、万葉集にある葛飾早稲の歌に出てくる万葉歌碑
  があります。




  北部コース
      駒形神社
 ・平方観音本尊は聖観音菩薩(秘仏)で午年に御開帳されます。境内には流山市内では
  最も古いとされる板石塔婆があります。
 ・山田家の祖先は石田三成の重臣山田上野之介で、佐和山城落城後せがれと孫が逃れ
  東深井に住んだという。(慈眼院)
 ・安蒜家墓所には県指定有形文化財の安蒜家板石塔婆があります。
 ・駒形神社の境内には源義家が奥州出陣の折りに立ち寄られ、愛馬を繋いだとされる
  椋(むく)の木の後裔があります
  中央部コース  
     朝寝坊観音
 ・8代目柳沢茂左衛門が信仰に篤く、 私邸内にこんぴら様を迎え氏神としました。
  (金刀比羅神社)
 ・源頼朝の戦勝祈願伝説、奥州征伐の桐下駄伝説、足止めの狛犬伝説があります。
  (香取神社)
 ・観音堂に安置されている聖観音菩薩は室町期の仏像で市指定有形文化財となっ
  ています。 朝寝坊観音ともいわれ、これにまつわる民話があります.。(西栄寺)


  東部コース  
天形星神社
    
 ・眼病平癒の寺として知られた沢山の絵馬が奉納されています。市指定有形民俗文化財,
  また、「ばちあたり仙蔵」の民話があります。’(浄蓮寺)
 ・他に類をみない変わった神社名である(天形星神社)




  南部コース1  
愛染明王像
 ・恋愛成就、家庭円満、愛、染物、水商売の守護神とされる。かつては願いがかなうと
  お礼に木刀を奉納したという。(愛染堂)
 ・忠犬小金丸の伝承と八木発祥伝説があります。(熊野神社)
 ・天正19年(1591年)徳川家康から30石を賜った御朱印寺。130余りの末寺を持つこの
  一帯の大本山。また、中門には左甚五郎作と伝えられる目つぶしの鴨が彫られている。
 
「目つぶしの鴨」の民話があります。 (東福寺)
 ・境内に立てた赤鬼、青鬼の顔を描いた的に向かい、社殿から矢を射てその年の吉凶を
  占い、豊作,家内安全を祈願します。「おびしゃ行事」市指定無形民俗文化財 (雷神社)
 南部コース2   
野馬除土手跡
 ・野馬除土手跡は保存状態がよく、当時の姿をそのまま見ることができる貴重な史跡
  です。 (野馬除土手跡・松ヶ丘1丁目)
 ・真言宗豊山派の寺院。50余の末寺をもつ本山でした。樹齢400年といわれる枝垂桜は
  みごと (清瀧院)
 ・創建は永禄5年(1562年)小金城主高城下野守胤辰が開基。(広寿寺)。
 ・16世紀半ばから天正18年(1590年)頃まで小金城(松戸市)を本拠とする高城氏の
  支城として機能していました。(前ヶ崎城址)
  明治維新150年
 企画「新選組と流山」
   ・今から150年前、近藤勇、土方歳三率いる新選組が流山にやってきました。
 ・近藤勇は新政府軍に三方から包囲されていることと浅間神社裏に錦の御旗が立って
  いるのを知り、死を決意。
 ・近藤勇は新政府軍に、流山に駐留している理由を説明するために出頭し、矢河原の渡し
  を後に二度と帰らぬ人となった。
近藤、土方が最後の別れとなった場所である。
 ・新選組の流山での歴史はわずか2日間でありましが、この2日間が近藤勇ひとりの犠牲
  によって流山の街が救われました


 
       
 
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