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明治150年企画「新選組と流山」
今からおよそ150年前、幕末の激流に呑まれ、命知らずと強固な結束の組織、それは新選組。
浅葱色の羽織に「誠」の文字のユニフォーム。京都において治安維持のため徹底的に取り締まり、恐れられていた新選組、
「より武士らしく生きる」をモットーに戦い抜いた新選組、彼らを率いたのは局長近藤勇と副長土方歳三であった。
戊辰戦争で近藤勇が最後の陣を構えた地、それが流山である。
慶応4年4月2日、江戸城無血開城を前に流山に入った新選組は翌3日、新政府軍によって包囲された。同夕刻、近藤勇の
出頭によって流山の街は戦火から免れることができた。ここでは、150年前の新選組と新政府軍が流山に残した足跡を
たどります。
案内コースは
平和台駅 → 丹後の渡し跡 → 流山寺 → 光明院 → 近藤勇流山本陣跡 → 秋元稲荷・近藤勇辞世の句 →
浅間神社→ 本通りおよび裏通り → 矢河原の渡し跡 → 本多家加村台御屋敷跡 → 飛地山 → 流山駅
本記のガイドをご希望の方は「新選組ツアーガイド」としてお申し込みください。
出発は平和台駅、解散は流山駅。所要時間は2時間30分です。
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新選組流山進入経路と新政府軍進入経路
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近藤勇流山本陣跡
近藤勇、土方歳三らが戦勝祈願したと伝わる稲荷神社
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丹後の渡し跡 |
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表示杭と反対側の江戸川
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慶応4年4月2日未明、新選組は丹後の渡しを渡って流山に入った。総勢227名といわれる
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流山寺 |
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隊士らは各所に分宿したが、流山寺もそのひとつであった
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戒壇石(不許葷酒入山門)
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光明院 |
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光明院も隊士の分宿所であった
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新選組隊士分宿の寺
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一茶ゆかりの寺
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近藤勇流山本陣跡 |
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近藤勇、土方歳三ら新選組幹部は当時、醸造業を営む長岡屋に入り本陣を構えた。 慶応4年4月3日新政府軍
に包囲された近藤は、同夕刻、新政府軍に出頭した。
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秋元稲荷、近藤勇
辞世の句 |
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近藤勇、土方歳三らが戦勝祈願したと伝わる稲荷神社と近藤勇の辞世の句
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浅間神社 |
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浅間神社
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富士塚(流山市有形文化財)
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錦の御旗
(YaHoo検索より) |
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慶応4年4月3日午後、神社裏手に新政府軍の本営が置かれ、錦の御旗が立てられた
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本通りおよび裏通り |
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新政府軍はこの辺りに大砲を構え、新選組本陣を狙った (浅間神社付近とその裏手)
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矢河原の渡し跡
(やっから) |
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表示杭と反対側の江戸川 |
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慶応4年4月3日夕方、出頭した近藤勇は矢河原の渡しから越谷宿に連れて行かれ、二度と帰らぬ人となった
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羽口の渡し跡 |
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表示杭と反対側の江戸川
慶応4年4月3日午後、新政府軍は「羽口の渡し」から流山に入った
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本多家加村台
御屋敷跡 |
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屋敷跡に建てられた流山市立博物館(右)
と中央図書館(左)
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本多家加村台御屋敷イメージ図
おの・つよし著「歴史ガイドとイラストマップ 流山のむかし」崙書房より
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田中藩本多家の屋敷があった。本多家は流山に武装集団がいることを新政府軍に知らせた
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飛地山 |
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正面奥が流鉄流山線流山駅でその裏手が飛地山 宅地開発されて切り崩された現在の飛地山(右側)
新政府軍はこの飛地山に大砲を構え、新選組本陣を狙った
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