江戸川の渡し
流山市域にはかつて8つの渡し場がありました。江戸の防衛上から江戸川には橋がなかったので、対岸には船で
渡りました。寺社参拝や商用の他、江戸川の改修などで分村や飛び地ができたので、農作業用の渡しが必要でした。
そのような渡し場のなかで、加にあった矢河原の渡し(加村の渡し)と流山にあった丹後の渡しは流山本町の玄関
口として対岸との交流を支えました。慶応4年4月、新選組は丹後の渡しから流山に入り、近藤勇が新政府軍ととも
に去ったのが矢河原の渡しでした。
陸路が主流となった現代では、渡しの姿を見ることは出来なくなりました。近年になりその跡を後世に残そうという
ことで流山市観光協会では8本の標柱を整備しました。
澄み渡った空気を吸いながらのんびりと史跡を巡り、江戸時代の人々の生活や新選組のことを思いめぐらしたら
いかがでしょうか。
□で囲まれた名称をクリックすると写真と説明が表示されます |
【1】深井新田の渡し跡
深井新田は江戸時代の江戸川開さくで分断された地域
で、対岸に耕作地を持つ人も多く、認可は明治10年6月
だが、江戸時代からの古い渡しである。
説明文は流山市観光協会より
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標柱は堤防の外側に建っている
左側が江戸川、堤防の頂部は舗装
されサイクリングロードとなっている
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江戸川 |
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【2】尼谷の渡し跡
平方村新田と平方新田(埼玉側)が共同で運営していた渡しで、30人ほどが乗れる大型の舟を使用し、
時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。 |
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【3】六兵衛の渡し跡
別名「上新宿の渡し」と言うが、六兵衛なる人が運営し「六兵衛の渡し」が一般的。作業場(対岸の耕作地や
流作場)への渡しとして昭和20年頃まで存続。
*流作場(ながれさくば/りゅうさくば)とは水害を受けやすい田のこと。
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取水口
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【4】半割(南)の渡し跡
3,4人が共同で運営、昭和20年代後半まで存続した。埼玉側では農閑期に牛や馬を千葉側に預ける
ことが多く、「馬船」と呼ばれる大型の舟を使用した。 |
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【5】羽口の渡し跡
流山に屯集した新選組を制圧するため、新政府軍が来流し、砲列を敷いた。田中藩が統治した加村の
公営の渡し場だが、近くに賭博場があったとも言われる。 |
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【6】矢河原の渡し跡
「加村の渡し」とも言い昭和35年頃まで存続した。幕末に再起を図るため流山で屯集した新選組の局長
近藤勇は新政府軍の包囲に出頭、この渡しで流山を後にし、二度と帰らぬ人となった。
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【7】丹後の渡し跡
「羽口の渡し」と並ぶ公営に渡しで小金道の一部として3艘の舟が用いられていた。新選組が来流時に
利用したとも言われる。昭和10年の流山橋架橋で廃止された。その橋も昭和40年2月に現在の流山橋
の完成で姿を消した。右の写真のように現在では橋脚基礎だけが残って往時を忍ばせている。 |
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「丹後の渡し」付近のサイクリングロード |
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【8】幸房の渡し跡
「岩野木の渡し」、「七右衛門新田の渡し」「幸房の渡し」と様々な名称がある。江戸川の渡しは
千葉側と埼玉側の地名を交互につけたが、自分側の地名で呼ぶことが多い。
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「幸房の渡し」付近から下流側のサイクリングロードは災害時緊急用道路として
7mに拡幅され2013年3月に完成した
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